201105~ | ナノ




 いつもより気合いを込めた手付きで衣服を羽織る。強く手袋を引っ張り、支度に一区切りつけると部屋を後にした。
 朝日が眩しい。絶好の出立日和だと思った。朝から鬱陶しい野郎の顔を見ることもなく、足は集合場所である城の出入り口付近へと差し掛かった。

「あれ」

 と、眼前に捉えた人物の後ろ姿に瞠目し、声を上げる。呼応され、彼女もまたその小さな肩を上下させるとゆっくりこちらへ振り返った。驚きに満ちた表情を笑うように「よう」と片手を上げる。

「あ、えーっと……おはよう、ございます。凌統様」
「凌統様、ねえ」
「……なんか文句ある?」
「はは、そっちの方がらしいっての」

 頬を膨らませ、いつもの従事服を身につけていたなまえはここら近辺にぞくぞくと集まり始めている武人の中で一際目立った存在に思えた。とはいえ、彼女の目的を自分は熟知しているつもりだ。
 口元を緩く曲げ、上げていた片手をそのまま彼女の頭へ乗せる。突然のことに動揺したのか、なまえは身を強ばらせた。
 かわいいねえ、といった軽口だと憤慨されそうな本音は、空気に触れることなく内心だけに留めておく。

「休みだったんだろ?」
「うん、でも」
「早起きしたしせっかくだから手伝おうとか?」
「そんなとこ」
「熱心なのはいいけど、無理しないように。体壊しちゃ元も子もないっつうの」
「それ、今から戦に行くひとに言われたくない」
「はは」

 それもそうか、と笑えばきっと彼女も釣られて笑ってくれるだろうと思っていた。けれどなまえは凛とした瞳を携え、いつも以上に真剣みを帯びた表情に変える。たまに見かける勤務中のそれよりももっと深く、そこには憂いが混じっているようにも見えた。

「あのね」
「ん?」
「あの、ね」

 ゆっくりと彼女の視線が流れる。背後で徐々に形成されつつある隊列から、時間を気にしているようだった。
 手のひらを数回、ぽんぽんとなまえの頭を軽く叩くと出来る限り優しさを滲ませるような口調で言った。「別にまだ時間はあるから、ゆっくりでいいよ」それを彼女は気遣いと捉えたのだろうか。はたまた素直に受け取ってくれたのかは分からない。けれどいずれにせよなまえは何か思案するような素振りを見せてから、遠慮がちに「はい」と笑った。
 少しの間沈黙の時間が訪れる。その後、意を決したかのように彼女は今一度その強い光を携えた瞳でまっすぐこちらを見つめてきた。

「ただいま」
「……ん」
「帰ってきたら、一番に私に言ってほしいの」
「……」
「そしたら私、おかえりって言うから」

 それは弱気な部分を滅多に見せない彼女なりの、精一杯の強がりだったのかもしれない。

「無事に……帰って、きて、ただいまって言って欲しいな」

 小さな肩は、小刻みに震えていた。撫でる頭がゆっくりと俯いていく。それを何とか阻止したかったのに兵の目がある手前、自分に出来ることはこれ以上、ない。変に抱き寄せたりしてしまえば、好奇な目を向けられてしまうのは間違いなく自分より立場の低い彼女の方だ。

「分かってるって」

 出来るだけ、柔らかく微笑む。「俺を誰だと思ってんの?」と続ければ、先程とは打って変わって、冗談交じりのこちらの口調に釣られるようになまえはふわりと笑った。ああ、これだな。内心だけで、零す。指先から伝わる彼女の温度ももちろんだけれど、やっぱり自分が再びここに帰って来たいと思うのは何よりもこの笑顔をずっとこの先も見つめていたいからだ。

「んじゃ、そろそろ行くよ」
「うん。……気をつけてね」
「俺の留守中、お前も気をつけなよ」
「それについては心配無用だから」
「ま、それもそっか」
「……どういう意味」
「ははっ」

 手を離し、一歩先へ進む。門外に出ればそこは彼女のいない世界で、殺伐とした風景だけが広がっている。けれどそれに臆することなく足を進めた。顔だけを背後へ向ければ、少し距離を取った先で柔らかな表情で送り出そうと必死になっている彼女の姿があって、無性にそれが愛しく思えた。
 片手を振り、その憂いを少しでも取り除こうと試みる。じわりと、空気に震える彼女の瞳。瞬間、歯痒いな、と無意識に唇を噛んだ。
 とっとと片付けて、即効で帰って来よう。そして、その震える肩を抱き締めてあげたい。決意した心に誘われるように、足は大地を強く踏みしめた。

 紅色の御旗が、上がる。



四つの言葉
「ただいま」「おかえり」