201105~ | ナノ



 真夜中に灯りが漏れている一室があった。首を傾げ、自然と早まった足が止まったのは部下であるなまえの私室だった。こんな夜更けだというのに彼女は起きているのか。そんなことを思いながら、出入口の前でそっと片手を上げる。入室を請う行為を一瞬、躊躇した。起きているとはいえ、女性の部屋に入ることなど今までしたことがない。
 けれど、と嘆息する。ここ最近彼女の働きは明らかに度を越していた。上司である自分もまた主君である孫権から度々過剰な労働を諌められている立場であるから強くは言えないが、一言くらい言葉を掛けても罰は当たらないだろう。そう小さく決意し、戸口を二度、叩いた。
 その決意も空しく、返事が来ることはなかった。拍子抜けしつつも目を数度瞬きさせながら手は戸口の取っ手へと伸びる。ギ、と低い音と共に視界が一際明るさを帯びた。眩しさに目を細め、次に焦点をあてたのは室内奥に設置された机に伏せるなまえの姿だった。

「……なまえ殿?」

 小さく呼び掛けるも、反応はない。足音を殺しながらその背中に近付き、覗き込むと彼女は穏やかな寝息を立てていた。
 はあ、と無意識に溜息が出た。自分が制せずとも彼女は休息の取り方を知っている。ひたすら知恵を得るために奔走していた過去の愚かな自分よりもずっと、ずっと彼女は大人だ。
 同時に、錠もせず眠り込んでいる彼女の無防備さに呆れた。自分以外の誰かが漏れていた室内の灯火に気付いていたらどうなっていたか。そんな心配を余所に彼女は相変わらず規則的な寝息を立て、夢の世界だ。

「全く……」

 室内を見渡し、寝具とおぼしき厚手の布を掴むとそれをなまえの肩に掛ける。
 そのことで微かに彼女の肩が上下した。起こしてしまっただろうか。一抹の不安が過るものの、数秒の静寂の後聞こえてきた安息の寝息に安堵した。
 毛布を掛けた際に僅かに彼女の肩に触れた自分の手のひらを見つめる。じわりと広がった暖かみに、目尻が無意識に下がった。
 なまえ、と再び彼女の名前を呼ぶ。そのひとつひとつの単語がひどく優しいものに思えてしまったのは、穏やかな寝顔に釣られたからだろうか。
 一部下でありながらも、自分が僅かに抱いていた気持ちが無意識に自身の熱を上昇させた。見つめていた手のひらを返し、指先をそっとなまえの方へ差し出した。少しだけ、緊張している気がする。寝ている相手に呉の軍師である自分がここまでたじろぐなんて。内心そんな自分を自嘲しつつも、指は柔らかな彼女の髪を一房手にすると、そのしなやかな髪質に顔が綻んだ。

「……」

 綺麗だ。
 まるで西洋の物語に紡がれる姫のような寝顔。

「あまり無防備にされますと、どうなるか分からないですよ……?」

 光源が揺らめく。
 独り言を溢し、ゆっくりと顔を落とす。手にした髪に唇を落とすと彼女から距離を取り、退室しようと出口へ足を向けた。

「……ん」

 その足取りを止めたのは、なまえの小さな呻き声だった。振り返り、背中を見つめる。もぞもぞとその小さな体を動かせながら、彼女は尚も気だるい睡魔に身を寄せていた。なまえ? こちらの呼び掛けに呼応するように、彼女は言った。

「陸、遜さま……」

 ――息を呑んだ。彼女の夢の世界で自分が存在していたこと。すがるように、まるで慈しむように。
 自分の名前を。
 口元を押さえる。言い知れない喜びの波が襲った。
 これ以上ここにいては抑えきれない。そう判断すると同時に足早に体は室外へと投じた。
 早足で廊下を歩く。ひやりとした空気が心地いいまでに、全身が火照りを訴えていた。苦しいほど心臓がうるさい。

「……困りましたね」

 意識してしまった。今まで淡かった気持ちに確実性が生まれてしまった。宛がった口元の辺りが熱に浮かされているのが分かる。
 先程目にした彼女の寝顔を想起する。くらりと視界が歪むほどの熱に、陸遜は明日からの自分の身を案じた。
 はあ、と盛大についた溜息は天を上りゆるやかに空気の中へと染み渡っていった。丁度、自分が彼女を思うときに抱く淡い心のように。



朧色