曖昧な距離というのは全くもって、実に厄介な話だ。さあ、どうしようか。きっと今日もまた、その時間は訪れるはずだ。使い古した年代物の置時計のネジをくるくると回していく。六と七の間から始まって、それは三百六十度回った挙げ句、私個人の所定位置でピタリと止まった。同時に、枕元に置いていた携帯電話がぶるぶると地響きのような音を立てて着信を知らせる。短針が十一と十二の間にあった。いつもの時間。私はそっと応答ボタンを押した。
もしもしすらないとは。耳障りなくらいの電波のような音だけが鼓膜を揺らしてくる。発信者はそちらであるはずなのにまるで私から話しかけろとでも言いたげなその沈黙に、少し湿ったまま放ったらかしにしていた髪を払った。指先にヒヤリとした感触が通る。思わず眉をしかめた。
「何様ですかー」
「俺様じゃ」
なんだ、喋れるんじゃない。皮肉を溢しても彼にその意図が全部伝わるわけない。彼にはその手の応答は通用しないと知っていた。
私は、使われているのだ。
そもそも事の発端は何だったかなあなんて的はずれな思考を彷徨させながら、頬と肩の間にその忌々しい声の発せられる無機物を挟み、話し掛けた。
「眠れないのですか、仁王雅治くん」
疑問でもなく、心配でもなくそれは淡々とした口調だった。自覚はあった。予想通り、彼からは「冷たい言い方じゃの。あと白々しい」と非難が飛ぶ。慣れたものだ、私も彼も。淡々とした口調はお互い様、そこに付随する冷たさもまた、お互い様だった。
棚の上に置かれた爪切りへ、手を伸ばす。金具を起点とし、くるりと回したそれを足の指へ宛てがった。
「常勝の立海大附属中学校男子テニス部は明日も朝早くから練習でしょ」
早口に捲し立てる。有無を言わさずいいからさっさと寝ろという私の雰囲気を、電波の波の中から探しだすことに成功したのかもしれない。息を呑むような息遣いがした。ああきっと、自分が純粋に彼のファンだったなら今の息遣いだけで昇天出来たんだろうなあ。残念ながらそんな淡い気持ちは持ち合わせていない。
むしろ、逆だ。唇を噛む。そうだ、私は事あるごとに、最近ではほぼ毎日のように夜中に電話を掛けて、下らない話をしては私の時間を奪いにくる仁王雅治という男が大の苦手なのだ。
「眠れん」
「や、でも私眠い」
「本当かの」
「嘘ついてどうすんの」
瞼を伏せれば今すぐ眠れそうなほど、睡魔はすぐそばにまで歩み寄っていた。けれどそれを振り切るかのようにパチパチと音を鳴らし、長く伸びた足の指の爪を切り落としていく。パチパチ、コンコン。そんな擬音だけがお互いの回線を占有していた。それが幾ばくか続いた後、おもむろに彼は言った。「腹が減った」と。
手が滑り、派手な音を立てて爪切りがフローリングへと落ちた。動揺したわけじゃない。本当に、ただ手が滑っただけだ。そしてあろうことか、そのタイミングが絶妙過ぎた。
「何じゃ」
「べつ、に」
ベッドから床へと手を伸ばす。前傾姿勢になったせいで言葉に詰まってしまったこともさっきのタイミングの良さも全部全部。
仁王にとって都合が良すぎている。
「ご飯、食べてないの」
取り繕うように続ける。早口にならないよう平静を保って、それから、決定打を与えないように細心の注意を払いながら言葉を選んだつもりなのに彼から返ってきた声は「おー」だったか「あー」だったか、とにかくそんな間の抜けた返事だけだった。拍子抜けしてしまう。けれどすぐに自分が過剰だったと思い直すことにした。そうしてしまわなければなにかが崩れてしまいそうだった。
「バカだね」
「バカで結構じゃ」
「今から食べたら」
「無理。胃が持たん」
まあ、確かに。時計を見れば既に短針は十二へ到達しかけている。日付が変わる。新しい一日が始まって、当たり前のように朝はやって来て、心の準備もままならないまま私達は制服に身を通す。影を欲しがる仁王には堪え難いことなのだろう。朝を嫌がる。いつまでも夜のままだったらええのに、と以前それがまるで叶う願いのようにさらりと言っていたことを思い出した。夜を好む、その癖独りを嫌う。一人を好むくせに、私を時間経過の道具として使う。堪え難いのは私の方だと、言ってしまいたかった。
「ちゃんと食べないと倒れるんじゃないのスポーツマン」
「やっぱり冷たい言い方じゃのう。あと白々しい」
それでも言えるわけがないのは、私も同じだからなのだろう。独りは、さみしい。
「あったかいところにいると冷たい温度が恋しくなるよね」
「そうかの」
「コタツにアイスとか暖房の中でアイスとか」
「アイスばっかりじゃな」
「でも仁王、アイス、好きでしょ」
道具と割りきる前に彼は私を拠り所としてくれていたんじゃないかという淡い期待を抱いていた時期もあった。でも、それは違う。同じだから。お互い様だから。
「おお、好きじゃな」
だから私達は傷を舐め合うのだ。
ことん、と拾い上げた爪切りと諦めに似た感情をひとつ。私は棚へ置いた。
ひとり
20111129