201105~ | ナノ



 こつん、こつん。
 高級だと自慢していた彼の靴底の音が辺りに響く。狭い非常階段。先程まで耳をつんざくように続いていた轟音は成りを潜めていた。

「完全に沈黙しましたね」
「ああ。全く、派手にやらかしてくれたものだ」
「溜め息の割には、楽しそうですけど」
「楽しいな。無能な奴らが好き放題しているところをこれから一網打尽にするかと思うと」
「変な性癖を持つと、後々苦労しますよ」

 性癖、という言葉に大佐は眉を潜めた。心外だったのだろうか。そんなバカな。足音ひとつ、強く地を蹴る。
 彼は知っているはずだ。一つ抜きん出た才能や特徴を持つとそれがいつしか弱味になるということ。無能と呼ばれた雨の日の悔しさを、彼だって忘れたわけではないだろう。忘れたい過去かもしれないが。
 どんな経験だって、軍人は捨てることの出来ないものだ。それがどんなに屈辱的だったとしても、記憶はマイナスになる要素を持たない。

「大佐、それ。弱味にされますよ」
「ほう?」
「都合のいいカモさえ流しておけば、ロイ・マスタングは調子に乗ってそれ以外見えなくなる。楽しげにカモ狩りをしている後ろから首をさっくりと……、なんちゃって」
「なるほど。それは今後の参考にしておこう」

 階段を上る、上る。大袈裟に足音を立てているのは、わざとだ。が、やはり彼の振舞いは少し派手すぎるような気がした。こんな見えすいた罠に嵌まるようなら、テロリストなんて上等な枠に納めてはいけないくらいには、至極単純なそれ。
 要は囮。指揮官相当の彼が派手な行動を起こせば、必ず相手側は何かしら動きに出る。籠城に決め込んだ集団に対し有力な作戦だった。それが果たしてプラスになるか、否か。それを図る術は持ち得ない。
 何故なら同時に軍はロイ・マスタングという重要なカードを危険に晒すことになるからだ。作戦は諸刃の剣と言ってもいいものだった。

「それでも、随分釣り合いの取れない剣ですけど」
「む、何か言ったか」
「いいえ、大佐を敵に回したくないな、とだけ」
「それは部下たる君の、上司たる私に対しての盛大な失言だな」
「作戦中にテンション上がりまくって言動が過激になることくらい、よくあるでしょう」
「普段は隠れている性癖が現れる、とか」
「まあ、そんなとこで」

 そう、これは見えすえた戦いだ。聖戦などではない。予め用意された勝利。なんと言っても諸刃の剣の片方は実に鋭利でよく切れる。彼の右腕に目を向けた。そこにはきっちりと白い手袋が嵌められていて、その眩しさに眩暈がする。
 階段を二段飛ばしでかけ上がる男の背中に視線を移す。一つ息を吐いた。「大佐が死ぬなんて、想像つかないし」。それを彼は聞いていたのだろうか。それなら先程の失言はこれで相子にしてほしい。これ以上ないほどの、私の中でも最上級の誉め言葉なのだから。

「そういえば以前もそんなことがあった」

 駆け上がる最中に話しかけられる余裕があるくらいだ。彼は――もちろん油断など一切していないし、妥協もしていないが――余裕たっぷりの口調で背後に続く私へ、目をやった。前を向いてください、と軽い叱咤を返すことで続きを促す。それを彼は「結構」とあしらった。私への配慮のつもりか。無駄話も、少しだけ緩んだ彼の足も。やがて訪れる一種の戦場へ突入する準備が、こちらも万端だということを確認すると、大佐はすぐに顔を背けた。

「血と煙の匂いは性欲を掻き立てるらしいな。極度の緊張とストレスによる暴走とでもいうべきか」
「すごく嫌な、話の気がします」
「女性にする話ではなかったか」
「今もプライベートでも私はあなたの一部下でしかありませんけど」
「一般論だよ。君は少し、極端だ」
「まあ、気持ちのいい話ではありません」

 かん、かん。鉄製の地面が悲鳴を上げる。

「大佐」
「ん」

 ふわりと鼻腔を擽った香りに、今度は私が顔をしかめる番だった。

「女性ものの香水の匂いがします」
「……鼻がいいな。腕のいい耳鼻科に通っているのか」
「残念ながら今日は風が強いですし。また新しい女性ですか?」
「最近は女性物の香りを男が付けること自体、珍しくないらしい」
「あれ、苦しい言い訳。もっと上手だったはずですけど」
「まさかこのタイミングで言われるとは思わなかったからな」
「ふうん」

 その狭間で交わす会話は実に拍子抜けしたものだった。
 まだ日は高い。きっと彼の全身を包むほどの香りを持った女性とは、朝まで一緒だったのだろう。そんな彼が何食わぬ顔で仕事に出向き、今まさに、悪党を倒す正義のヒーローもどきに成り下がろうとしているだなんて。なんて、面白いんだろう。なんて、気に喰わないんだろう。
 背後の建物に一瞬だけ視界を移す。照準鏡だろうか。太陽に反射し、キラリと何かが輝いた。鷹の目がいる。諸刃の剣に非ず所以はそこにも存在していた。

「私が尊敬するホークアイ中尉には」
「手ならまだ出していないぞ」
「予定はあるんですか」
「まさか。恐怖の方が勝るよ。主に君からの制裁がね」
「いえ、私は」

 両者の合意さえあれば口を挟むような真似はしない。尤も、それが起こり得るかと聞かれれば返事はノーだ。恋愛やそういった類いの感情を、この二人は卓越している。
 だから、こうして別の女の気配がすると妙に苛ついて仕方ないのだ。
 あの人がいるというのに、この男は。自分でも矛盾した考えだと思う。

「別に大佐がどうあれ、ですけど」
「分かってるさ」
「分かってる? 大佐って、エスパーでしたっけ?」
「まさか。でも辛辣な君の思考は手に取るように分かる」
「へえ、じゃあ。当ててみてください。絶対外すと思う。あと辛辣はすごく、褒め言葉」
「『私の尊敬する女性に手を出した日には半殺し決定』、とかな」
「残念でした。それじゃあ中尉が悲しみます」
「では?」
「ですので」

 ようやく、建物の階段に終わりが見えてきた。立て籠もる内部を足で踏みつけるかのように、こつん、と音を鳴らして屋上へ足を付ける。浸る優越感を押し隠すように、顔を引き締めた。さあ、彼はこれから悪党どもを出し抜く。その前に私が彼を出し抜こう。きっとロイ・マスタングたる男ならば、怯むことなどない。ちょっとした悪戯心だった。ああ、と息を吐く。

「代わりに私を抱けばいいと思います。って考えてたんです」

 きっとこれが、私の性癖。


20111129