201105~ | ナノ



※ ちょっとあやしい


 ひゅうっと強い風が吹いた。こほん、と一つ咳払いをして、両足のかかとをくっ付ける。ぴんと張った背中を保ったまま、指先はコールボタンをゆっくりと押していた。寒くて指がしもやけしそうだ。早く、暖かいコーヒーが飲みたい。

「久しぶり、若桜」
「あー、うん」

 ぼさぼさの髪を放っておくなんて、随分らしくないことをしているなあと一目見て、思った。相変わらず訳の分からない機械に囲まれた室内。足の踏み場もない彼の職場に、躊躇することなく踏み出す。踏み場もないといったけれど、ここで引き返すような真似はしたくなった。何しろ外は寒いのだ。
 クローゼットの中から引っ張り出してきたマフラーに顎を埋めながら、足を進める。それほど広くないワンルームの間取りは、敷き詰められた仕事道具で更に窮屈そうに思える。ぺたぺたと厚手の靴下でフローリングの感触楽しむ。時々フローリングじゃない何かを踏んでいるけれど、若桜から怒号が飛ぶことは滅多とない。彼はこの空間で自由に生きている。そこに付け入る隙間はとても窮屈で苦しいほど、狭いものだ。
 それにしても、と小さなテーブルに目を移す。そこにはカロリーメイトとか、バランス補給食品の袋とかがたくさん転がっていた。そこだけ、簡易的なプライベート空間のようだ。ただし、とても偏食的な光景。

「ちゃんとご飯、食べてる?」
「カロリー何とかなら」
「メイト?」
「そうそう俺のソウルメイト」
「えー怪しい。それ何時間前?」
「いつだったかなあ……」
「もう、数時間とかいうレベルを超えた言い方だよそれ」

 「んー……ずっとパソコン見てたから、覚えてない」。ふわ、と欠伸を零したついでに、若桜は癖っ毛の強い髪を乱暴に掻き乱した。ピンク色の髪。とても綺麗。心なしか、若桜の家のお風呂場にある変な模様のかかれたシャンプーの香りが漂った。あ、鼻がむずむずする。秋の花粉症を持った自覚はない。春はそれはもうティッシュ箱が手放せないくらい酷いけれど。となると、ここはあれだろうか。春。そういえば、暖かい。

「若桜、今って何月?」
「え、ダイジョーブ?」
「うん」
「10月だけど」
「そうだよね。そうだよね」
「え?」
「うん。なんか、一瞬春かなあって錯覚に陥った」

 くしゅん。
 言い切った後に、一つくしゃみをする。若桜は笑って、「コーヒー淹れようか」と言ってくれた。心待ちにしていた暖かさに触れ、無意識に頬が緩んでしまう。それを肯定と捉えた彼はゆっくりキッチンへと向かった。いつもであれば、コーヒーを淹れるのは私の役目だ。けれど、逢瀬に少し時間が空くとその立場は逆転する。仕事で忙しい彼なりの、詫びのつもりなのだろう。だから私は甘えることにした。なんて言ったって、彼が淹れてくれるコーヒーは私なんかが作るものより何十万倍も美味しい。ずっと愛好してきた年季がそうさせているのだろう。

「今日も外は寒い?」
「寒いよ、引きこもりさん」
「しょーがないじゃん、それが仕事なんだから」
「でも呼んでくれたってことは、少し落ち着いた?」
「ん、まーね」
「さっすがー」
「天才でしょ、俺」
「自分で言わなきゃねー」

 それでも若桜の背中をただぼうっと見つめているだけというのも申し訳ないので、私は一度カーペットに落ち着いていた腰を上げて、彼のいるキッチンへと向かった。シュガーポットと、ミルクを運ぶため。もっともそれは自分のためだ。専らブラックコーヒーを好む彼のためにはならない。けれど、それしか手伝えることがない。二人の間に転がってる要素というのは、かくも単純で、簡単なものばかりだった。

「わーかーさー」
「んー?」

 シュガーポットを手にしながら、私はコーヒーメーカーの前に立つ若桜の背中に顔を埋めた。甘えたような私の態度に、これまた甘い対応を返してくれる若桜のことが、本当に好き。大好き。

「どったの?」
「いいにおいー」
「コーヒーが?」
「ううん。若桜が」
「ええ? 俺?」
「お風呂、入った?」
「シャワーだけね。乾かしてないからボサボサだけど」
「風邪引いちゃうよ?」
「ヘーキヘーキ」

 背中に抱きついたまま離れようとしない私に向かって若桜が「コーヒー注ぐから、ばたばたしちゃだめね」と言った。まるで小さな子どもを宥めるような言い方に、頬が膨らんだ。

「子供じゃないよう」
「わっ、だからばたばたしちゃだめって! こぼれるっ」
「しかもばたばたって! 地団駄踏んでるみたいじゃん!」
「現在進行形でばたばたしちゃってる子が言うことじゃないっしょ、それ」
「わーかーさ!」
「ちょっ苦しい、首に抱きつかないでっ」
「構って」
「ええー」
「寂しかったんだよー」
「……」

 埋めていた顔を上げ、そのまま彼の首に後ろから腕を回す。にもかかわらず器用にも若桜はコーヒーを注ぎ終えたようで。悔しさに頬を膨らませていると、若桜がやれやれといった様子でこちらを振り返ってくれた。そのゴーグル越し。とても綺麗な瞳の色が隠れてしまっていることが、私は嫌だった。いまこの時くらい外してくれたって、と思うけれど彼の視力のことを考えるとそう言うことも出来ない。

「なまえちゃん」

 ぎゅうっと、勢い良く抱きついてみる。シンクに腕を乗せ、彼はそんな私を難なく受け止めてくれた。広い胸元に顔を擦り付ける。シャワーを浴びたと言っていたせいだろうか、とても暖かかった。

「ごめんね」

 謝罪とともに、体が離され次に降りかかった温かみに、唇を合わせる。目を閉じている暇もなかった。視界が揺れる。目の前に彼の顔がある。その事実に、頬が熱を帯びた。綺麗な瞳が閉じられている。暗闇の中で、彼は私の唇を手探りで求めるように、何度も何度も合わせてきた。深くなる。徐々に、絡まる舌。たまに当たる彼の口元のピアスだけが、冷静な態度で私に触れてくる。そのギャップが、熱を掻き立てた。

「ん、……っ」

 変な、光景。閉じるきっかけをなくした私の瞳は相変わらず光を取り入れ続けているのに、若桜はそうじゃない。まるで自ら暗闇を選んだように眼を伏せたまま、私の唇を舐め続けていた。ぺろり、彼の舌が私の下唇を這う。ざらついた感触に、肩を揺らす。と、面白がるように彼が更に深い繋がりを求めてきた。
 海外の映画とかでよく見るような、あんなキス。直視できないほどに、濃厚で見ているこっちが恥ずかしいと思わされるそのシーンを自分たちがすることになるなんて。寂しかった、構え、という懇願は、それほど彼に何らかの感情を与えてしまったのだろうか。と、深く唇同士が合わさる前に、彼のゴーグルが私の額にぶつかってしまった。

「いぎゃっ」

 ごちん、という擬音語とともにその場にそぐわない悲鳴があがる。プラスチック製だからって甘く見てた。痛い。何より折角の雰囲気をぶち壊してしまった自分の悲鳴が、痛い。
 若桜の瞳が開く。光を取り入れたそれが、やがて細められた。

「笑いたい、なら、我慢しないほうがいいと思うよ」
「……んーん」
「だって目が笑ってる。変な悲鳴って、絶対思ったでしょ」
「ん」
「ほら」
「でもそりゃ、俺のせいっしょ?」

 そう言って、彼はいつも外すことのないゴーグルのバンドに手を掛けた。くいっ、と指先一つでその隔たりはいとも容易くなくなってしまう。外してほしいという私の願いが、言葉にせずとも実現してしまうなんて。
 真っ直ぐと射抜くような瞳が、私を見つめる。すごく、恥ずかしかった。保護のためといって滅多に私の前でも外すことをしないくせに。こういうときに限って、ずるい。
 
「視力弱いからねー」
「ん、う」

 再び合わさった唇。その狭間で、若桜が言葉を紡ぐ。それに対し私は、翻弄されたように言葉にならざる声を出すことしか出来なかった。

「ゴーグル外しちゃうと、なまえちゃんのことじっくり見れない」
「……」
「でもまあ、こんなに近くにいるんだからたまにはいいかなーって。あとジャマだし」

 なんの邪魔になるのか。そんな問いは分かりきっている。先程まで私が若桜のことを押し付けるようにシンクに寄りかからせていたのに、気付けばその体勢はまったく逆転していて。本来食事をするためのダイニングテーブルの上に、私の体は横たえさせられた。ダイニングテーブル、なんて聞こえはいいけれど周りを見渡せばそこに食事に付随するものは何も見当たらない。目に入る光景はすべて機械、コンピュータ、よく分からない部品。普通じゃない。とても殺風景だった。
 それでもその景色の中で抱かれることを嬉しがる私も、ある意味普通じゃないのだろう。冷め切ったカップが二つ並ぶシンクを横目に、私は覆いかぶさる若桜の頭を撫でた。冷たい。まだ乾ききっていない彼の髪がちくちくと肌を刺激してくる。くすぐったさに目を閉じながら、暗闇の中でただただ湧き上がる熱を噛み締めることだけに専念した。

「ん、あった、かい」
「そりゃ、よかった」

 指が這う。冷たい。髪が濡れている。とても冷たい。それなのに触れられると、とても暖かかった。



A season is appreciated in the stagnating space.

20110925 / 停滞する空間の中で季節を噛み締める