201105~ | ナノ





(昔の話)

 興奮覚めやらぬ深夜。城の大広間では勝利の杯を交わす兵士たちの笑い声が絶えず聞こえた。それに少し口元を綻ばせながら、月明かり差し込む廊下を歩く。
 足音を立てずに、そっと。まるで忍のようだと考えが巡った時、廊下に差し込む一筋の光を見つけた。月の光ではない、自然な明るさ、それは蝋燭によるのものだろう。
 半兵衛の私室だ。そこまで考えを巡らせたところで、全てをお見通しとでも言わんばかりに中から声が掛かった。

「何か用かい?」

 つまり私の目的地だったのだ、ここは。少しだけ開かれた襖を見ると、まるで待ってくれていたのではないかという錯覚に陥る。短絡的な思考。それを口にすることなく隠し通しながら、私は平静を装って半兵衛の問いに答えた。

「頼まれてた資料持ってきた」
「あぁ、今度の戦で使いたいと言っていた奴だね。わざわざすまない」
「ううん」
「用はそれだけだろう?」

 ゆらりと蝋燭の火が揺れる。今晩は少し、風が冷たいと思った。後ろ手で両の襖を合わせる。ぴたりとやんだ涼しげさを少し名残惜しいと思いながらも、口を開いた。

「偉いねぇ、半兵衛は」
「何がだい?」
「さっき大広間通ったらまだ宴会してたよ兵士たち」
「明日に支障さえでなければ束の間の休息ぐらい、構わないさ」

 思いっ切り支障来しそうだけど、と笑ってみせると彼はそれなら鍛え直すまでさ、と返事をした。いつもの真剣な表情。先程渡した資料を早速読み進めながら、その明晰な頭脳は何を考えているんだろう。何を見ているのだろう。何が見えるのだろう。

 どこまでを、見ているのだろう。

 横顔を何も言わずただ見つめていた、そんな私に半兵衛から声がかかった。

「そんなに人の顔を見ないでくれないか。とてもやりづらい」
「半兵衛にはさ」

 言いかけて途切れたこちらの声に漸く資料に向かっていた半兵衛の顔が上がる。いつ見ても、端麗な顔立ちだ。蝋燭の光で映し出されるそれは尚更、綺麗だった。妖艶、薄幸、繊細、あるいは無常か。彼を示す言葉にはキリというものがない。たくさんの表現、けれどそのどれもが悲しいということに、気付かない振りをしていた。

「休息、ないの?」
「そんなもの、僕には必要ないね」
「ふっふっふ」
「なまえ?」

 そうして、再び資料へと戻りそうだった半兵衛の視線を引くため、わざとらしい笑い声を紡ぐ。それとともに懐に手を入れ、あるものを取り出した。

「じゃーん」
「………」

 途端に彼が呆れた表情になった。無言の空間の中で彼は「お前はバカか」とでも問い掛けているようだった。ようだった、じゃない。確実に、視線はそう言ってた。

「旦那、一杯いきません?」
「断固として拒否するよ」
「まーそう言わずに!」

 手に隠し持っていた酒の瓶。先程大広間から一本、くすねて来たものだ。ついでに杯を二つ取り出し、一つを強引に半兵衛に持たせる。

「全く……君は忘れたのかい?」
「何を?」
「僕たちの目的はまだまだ先だということ。つまりこんな戦、勝つのは当然なんだ。勝たなければいけない」

 半兵衛の話を聞きながらゆっくり自分の杯に酒を注ぐ。障子の先にある月明かりなのか、それとも蝋燭明かりなのかは分からなかったが、酒の表面にはきらきらと光が反射していた。趣があるなぁ、とそれを一口、口に含む。

「聞いているのかい? 大体君はすこし緊張感が足りなさすぎる。そんなんだから戦場でも」
「あ、半兵衛も飲む?」

 軽く頭の上で振って見せた酒。彼は瞬時にいや、結構だ。と言い切った。

「いーじゃん、飲もうよ」
「僕はこんなところで満足している場合じゃないからね」

 断固として飲もうとしない半兵衛を横目に、つまらないなと再び酒を飲む。熱を持ったそれは舌を刺激しながら、喉を通っていく。乾ききっていた体内が潤う瞬間は、最高だった。それが勝ち鬨を上げた夜のことであるならば、尚更。そのことを、彼だって知っているだろう。
 以前の半兵衛は夜宴に積極的に参加するという姿勢は今と変わらずだったけれど、それでも一人、部屋でささやかな祝杯を挙げるくらいのことはしていたはずだ。いつから、その姿を私は見ていない? ああ、考えることも億劫だ。それは絶望にしか成り得ない。そうでしょう、

「半兵衛、このお酒、美味しいよ」
「飲まないと言っているだろう」
「……お酒は嫌い? それとも」
「だからなまえ、僕の話を聞いているかい?」

 そうでしょう、半兵衛。

「体を、気遣ってのこと?」

 微かな光しかない室内でもよくわかる。半兵衛の息を飲む瞬間の、ハッとしたような表情。やがて冷静を保ち始めた半兵衛はゆっくり、私へ視線を寄越した。冷たくてやわらかくて、氷の塊が肌を撫でていくような感触。嫌いじゃない。むしろ、私は半兵衛のこの瞳が、好きだ。
 くい、と煽るように、杯に酌んだ酒を一気に飲み干した。

「なまえ、君はやはり侮れない人物だよ」
「半兵衛」
「何だい?」
「ごめん。知らないフリは、苦手みたい。嘘なら付けるけど、誤魔化すのは下手なんだ。半兵衛、私、ね。知ってたよ。あなたの、体のこと……気付きたくなかったけど、出来れば」

 饒舌になった私の言葉に、半兵衛は笑った。心の底から楽しむような口元の笑みに、私はどこか安堵した。

「いや、構わないさ。これで安心して君に軍師を任せられる。君では多少、心許ないけれどね」
「……やっぱり飲もうよ、半兵衛」

 どこかで笑い声がする。どこか、なんて愚問かもしれない。楽しそうな雰囲気。私たち二人とは対照的なのが何だか悔しかったから。私は半兵衛に無理やり押し付けた杯にこれまた無理やり酒を注ぎ込んだ。やれやれ、と言った溜息が聞こえる。勝ったと思った。
 勝ったはずなのに、勝負事に負けた時のような虚しさが心には広がっていた。見ない振りをしたかった。そうでなければ酒の力を使って私はきっと、泣き出してしまうだろうから。

「…仕方ないね。君に免じて、一杯だけなら」
「そうこなくっちゃ」

 今だけは、楽しくいさせてほしい。私は笑うことにした。
 何に乾杯なのか明白でないけれど、とりあえず祝杯として杯同士を軽くぶつける。カツンという陶器のすこし鈍い音。それでもこの空間、この室内に至っては響き渡るほどいい音に聞こえた。



杯を交わす夜