201105~ | ナノ


(大佐が片思い)

 失礼します、と一礼を携えて足を踏み入れた部屋はとても広々としていた。まずその質素さの中に潜む緊迫感に、皮膚が痛む。次に、快く迎え入れるような声を発した人物の存在に意表を突かれた。

「待っていたよ」
「……恐れ入りますが、あなたがマスタング大佐?」
「そうだ。君は今日から私の下で働くというみょうじ伍長だろう?」
「はい。本日付で異動となった、なまえ=みょうじです」

 初めましてと、深くお辞儀をすれば彼はそんなに畏まらなくてもいい、と軽快に笑った。顔を上げ、本日付で自分の上司となった男の姿を見据える。軍部内でも洒落者と評されるに相応しい顔立ちだった。漆黒の髪に、同色の瞳。飄々とした表情の中で、それはとても映えていて、うっかり気を抜けば魅入られてしまいそうになる。同僚の女性達が日頃囃し立てているのも頷けるな、と思った。

「私の顔に何か付いているかね」
「いえ」
「ふむ。さては、私に惚れたか」
「はあ」
「まあ、立ち話もなんだ。掛けたまえ」

 薦められるがまま、執務室内に設けられたソファに腰を掛ける。ふわりとした弾力が、その質の良さをひしひしと伝えていた。良いもの置いているな、さすがは大佐の地位に就いているだけはある。室内を見渡せば執務に関係あるものに紛れて、彼の私物らしきものが数点見受けられた。テーブルの上に置かれているチェス盤、読む気も起こらなさそうな分厚い本が二冊。壁に掛けられたコート。その脇に貼られたよく分からないポスター。そして彼の手元に置かれているカップ、ソーサー。どれもこれもが、高級そうな雰囲気を醸し出す演出となっていた。単なるこちらの思い込みかもしれないが。

「さて、今日から君はここで働くこととなったわけだが。それはまあ、おいおい説明するとしよう」
「はあ」
「まず聞きたいのは君の今夜の予定だ」
「今夜ですか」
「ああ」
「ええと、仕事が終わりましたら家に帰りますけど」
「他には?」
「そうですね。それ以外に用事は特に」

 それがどうしましたか。そう尋ねると、大佐は口元を吊り上げた。そして、続く。「君の歓迎会も含めて、私と二人で食事でもどうかと思ってね」、と。その意図が計り知れなかった。あたかも当然のことのように口走るなんて、そうそう出来る芸当でもない。しかも初対面同然の相手に、だ。口説いていると思われても仕方ないことではないのかと、他人のことながら心配になってしまった。それはただ、彼の印象を悪くすることにしか繋がらない要素だったから。

「食事ですか」
「ああ」
「それは仕事ですか?」
「生憎、公私混同はしたくないのでね」
「と、言いますと?」
「もちろん、完全にプライベートとしてだ」
「それでしたら、お断りさせて頂きます」

 答えに、彼は目を丸くした。断られるという選択肢などあるはずがないと信じきっていたかのような、動揺だった。首を傾げる。当たり前のことでしょう、と言いたかった。

「ああ、恋人がいたり?」
「いえ」
「……」
「あの、マスタング大佐」
「何だね」
「そういうのは、宜しくないと思いますよ」
「そういうのとは?」
「公私混同はしたくないと明言したにも拘らず仕事中に私事を持ち込むなんて」

 勝手に触れてはならない、と思いつつも駒一つすら高級感漂うチェスの盤に手を伸ばした。盤上には白とシックなブラウンの二色の駒が点在していた。その中で私はブラウンのキングを手にする。その手触りと独特な文様に、瑪瑙で作られているのだろうと悟った。

「とんだ、矛盾かと」

 盤目に嵌めると、ことん、とやけに重圧そうな音が鳴った。沈黙が訪れる。口火を切ったのは、マスタング大佐だった。

「……チェックメイトだな」
「え?」
「先程、ここで一戦交えていてね」
「仕事中にですか?」
「失礼な。休憩時間にだよ」
「ああ。それでしたら、安心しました」
「しかし昼間の休憩時間というのは有限だ」
「そうですね」
「折角いい所だったんだがね。銃声が鳴って、強制終了になってしまったという訳だ」
「銃声?」
「恐ろしい監視、と言うべきか」
「はあ」

 彼の言っている意味がよく分からなかった。とにかく彼は休憩時間にチェスに勤しんでいたらしい。銃声とやらは置いといて、それが何らかの形で強制的に終わらされ、そのままだった。そこへ私が訪問した、ということだ。執務室にしては随分とプライベート色の強い室内だと思ったら、そういった理由が隠されていたのか。
 何にせよ、適当な目に置いた私の一手が停滞していたゲームの勝敗を決めるものとなったらしい。

「チェスは得意かね」
「少々齧った程度です」
「それはいい。ぜひ、今度一戦したいものだ」
「仕事中に?」
「まさか」
「嘘吐きですね」

 ブラウンのルークとキングが白いキングを包囲するように直線上で並んでいる。盤の脇には時間を計るための時計と、それから、一つのカップが置かれていた。中身がまだ少し残っている。時計の針は休憩時間から二時間ほど進んでいた。目を細める。カップからは本当に薄くではあるが、白い煙が立ち昇っていた。

「私が来る少し前に、対戦相手はここを去ったのでしょう」
「……さあ、どうだったかな」
「大佐」
「私が、昼に休憩を取ったとは限らないだろう。何しろ、多忙の身でね。休憩時間がズレることは日常茶飯事さ」
「先程私は聞きました。『しかし昼間の休憩時間というのは有限だ』、と」
「その記憶力は評価に値するな。一字一句そのままだ」
「ありがとうございます」

 改めてキングを拾い上げる。手触りの良いそれを指で弄びながら、この部屋を訪れてから初めて笑った。再びチェックメイトを掛ける目に、それを置いた。ことん。とても、心に響く音だと思った。それから自分の座る側のテーブルに、白の駒が一塊になって寄せられているのを見つける。どうやら、後手がマスタング大佐だったようだ。白が、今ここに姿なき対戦相手。つまり私は大佐の勝利に助力した形となる。

「マスタング大佐」
「何かね」

 キングから手を離し、白に回収されていたポーンの一つを手にする。何の変哲もない造り。キングやクイーンのような装飾のないそれは、部下の一人である自分を映し出しているかのようだった。
 立ち上がり、それを彼の机に置く。涅色の視線がそちらに向けられたのを見計らって、私は彼に背を向けた。

「執務に関するお話がないのでしたら、失礼します」

 みょうじ伍長、と彼が私を呼ぶ。とてもじゃないけれど軍人のそれとは思えない声色だった。

「私は君を知っていたよ。ずっと前から」

 着実に退室へと近付く私の背中に、彼の焦った声が掛かる。おかしいな、と思った。同僚の話じゃ、あまり仕事をしないけれど、常に冷静沈着でポーカーフェイスで、冷酷かと思えば女性には愛想を振り撒く優しさを持っていて、紳士的で。とにかく完璧な人物だと専ら話題なのに。私が抱いた印象はそのどれにも当て嵌まらなかった。自分の発言にどこまでも矛盾を展開させて、まるでそこを指摘して欲しいと言わんばかりな言動ばかりが目立っていた。

「それは、光栄です」
「そして君を欲しいと願っていた。ずっと前からだ」
「……ありがとうございます、と言うべきですか」

 本当に彼はマスタング大佐なのだろうか。そんな疑問を抱きつつも私は部屋を後にする。指先にはチェス駒の滑らかな手触りの感触がまだ残っていた。私がポーンを置いた時、彼の表情が曇ったことには気付いていた。気付かぬ振りを貫き通した。彼は、こちらの主張したかったことを敏感に察知したのだろう。ポーンは言わば、キングを導くための駒。捨て駒。下っ端である私の役目には相応しい。
 彼は私を欲しいと永く願ってくれていた。それはとても光栄なことだ。そして、恐れ多くもある。ありがとうございます、と言ったのはやはり間違いだった。言葉に、声色に乗せて伝えることは他にあった。
 それを、ポーンは伝えてくれた。今の私に出来る恩返しは夜に彼とディナーを共にすることではなく、彼のために命を捨てる覚悟を抱くこと。瑪瑙は彼の机を叩く旋律の中に、私の願望を色強く奏でてくれた。
 『いつでも、捨て駒にしてください』、と。



 それは悲しむことではなく寧ろ軍人として、誇るべきこと。