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 暑いのは嫌いだから髪を切ったの。
 そんな嘘を付いたのは蝉が鳴き始めた頃だった。その時は真っ白の宿題に焦ることも進路について尋ねてくる紙に重圧を感じることも、まるっきり皆無だった。ただ学期末恒例に行われる校長の長々とした演説からの開放感、目の前に迫っている夏休みが来ることへの高揚感。他にはなにもなかった。
 公園の椅子に座り込むわたしの髪を撫でた風は、あの頃よりも少し、冷たい。

「それまだ提出してねーの」

 うん、とだけ零したわたしの髪はあの頃に比べてとても軽快なはずなのにそれとは裏腹、心はとても重苦しいものだった。公園の片隅で揺れるすすきがわたしの目を細めさせる。夜に浮かぶその色はまるで銀色のような金色のような、曖昧で、でもとても眩しくて。
 洋一に、似てる。

「さーさーのはーさーらさらー」
「すっげえ季節ハズレ」
「あー七月戻ってこーい」

 手を翳しても日付が逆戻りするわけでもないのにそれに縋るようにわたしは片手を宙に浮かせる。広げた五本の指がいつも以上に小さく見えるほど、夜の空はすごく広かった。それがまたなんか、虚しい。
 すすきはさらさらと風に揺れては穂を揺らしている。洋一だ。洋一が、いる。ふわふわと突然どこか揺れては、十月も終われば離れた存在になってしまう。夏が終わった時点でわたしと洋一をつなぐものなんて、僅かしか残っていないのだ。

「来年はアンタ一番上なんだね」
「はあ?」
「部活。誰がキャプテンなるのか分からないけど」
「ああ、まあな」
「……なーんか、変」
「……あ?」

 そんな眉間に皺寄せないでよ。洋一が纏っているジャージに目を向ける。青道高校。その、一番上に位置する学年にあと半年もしない内にわたし達は進級する。洋一は野球、を筆頭にしつつ何するかは分からないけど将来に向かってそれなりに多分、努力してる。周りの友達も行きたい大学だとかなりたい職業だとか、そういうのをキチンと決めてはそれに向かって努力している。わたしは、と言うと。鞄にしまってあファイルの中にいまだ眠ったままの進路希望調査票を脳裏に浮かべては何とも言えない気持ちに支配されているだけだ。わたしは何がしたいんだろう。そんな漠然とした問いにも真っ白の回答のままだった。

「一年生の頃は何も考えずに真っ直ぐ学校来るだけだったのに」

 一年の頃もそういえばわたしは髪の毛が長かった。肩甲骨のあたりまでは余裕であって、夏の間も邪魔だと思いながらもそのままで居た。あれは無意識に何かの願掛けをしていたのかな、と思い返すけれど特別に祈ることもない。ただ、恋をしただけ。
 その恋が実ればいいなんて願いは一度も持ったことはなかった。

「あのさ」
「んー。何、よーいちさん」
「キモイ」
「うわ」
「……なんで髪切ったんだよ」
「え、前言ってなかった?」

 暑いのは嫌いだから髪を切ったの。
 同じような質問を夏前にもされたことがあったなあと思い出す。朝教室に入るなり見た人全員に驚かれたあの日。御幸だとか友達だとか、挙句先生まで聞いてきたこと。
そういえば洋一はあの時、全く気にも留める様子も見せずにわたしに接していたんだ。それを今更聞くのも変な感じがして、わたしは笑った。

「嘘だろ」
「え、髪切る理由に嘘とか言う必要あんの?」
「お前はある」
「えー何その偏見」
「噂で、」

 噂って単語にああ、ってわたしはやる気のないような返事をした。決してわたしは洋一に恋心とかそれ以上のものを抱いてる自覚はないのだけど、こういう時どうにも心臓が煩くなってしまう。
 例えば二人で公園に来るとき、例えばわたしを気遣って言葉の続きを言わないとき。
 例えばわたしの気持ちを見透かしたように見つめてくるとき。
 すすきが揺れている。そうだ、もうすぐ十五夜だし、一本持って帰ろうか。家で毎年団子を作るとか言う風習はないけれどたまには良いかもしれない。そうすればきっと、何かイベントをすればきっと、
 全部全部考えることから逃げられるだろうから。

「面倒だなあ」
「はあ?」
「進路も学校も、恋も」

 失恋したから髪を切るなんてベタなことを自分がするとは思ってもみなかった。夏が来るまでは。暑いだろうし丁度いいから、切ってしまおう。そのジンクスの始まりもきっとそんな突拍子もないことから始まったんじゃないかな。髪の長い人が好きだと言っていた。だから伸ばした、なんて乙女くさくて嫌いだ。ただわたしも髪が長い方が良いと思っていたから、そうしただけの話で。決して好きだった人に振り向いて欲しいという欲求から伸ばした訳でも、泣きたい気持ちを抑えるために切った訳でもない。
 それなのに、悲しかった。

「俺は長いのよりそっちのが似合ってっと思う」
「えー」
「んだよ!」
「……うん、わたしもそう思う」
「……自意識過剰」

 照れ隠しなのか皮肉なのか分からない洋一の言葉をとりあえず笑って返す。すると笑うな! って更に照れ隠しっぽい言葉を続けられたものだから堪ったものじゃない。彼はわたしをよく、笑わせてくれる。おもむろに鞄に手を突っ込んでわたしは問題のファイルを取り出す。風がまた、わたしの横を通り抜けた。

「何すんだよ」
「洋一くん」
「だからキモイっての」
「わたしまだ無理だ」
「は?」
「けど、いつかは絶対決めるから」
「……」
「逃げるの、許して」

 ペンケースから取り出したはさみで、中央付近の端からプリントを切る。まるでわたしの長い髪が、美容師さんの手によってどんどん切り落とされていくように、それはスムーズに行われた。半分に折ってはまだその隙間からはさみを入れて、を繰り返す。
 夜の帳に包まれた辺りは昼間の喧騒を忘れたように静かで、時々風に揺れるすすきがざわりと鳴る音と鈴虫、それからはさみの刃が咬み合う音以外、静かだった。驚いたように洋一はわたしを見て、それからプリントに目を落とす。どんどんと小さい破片になっていくプリントは吹く風に抵抗の意思も見せずに舞い上がってはどこかへ飛んでいく。ごみ箱に捨てようと思った頃には手元に小さな紙屑は殆ど残されていなかった。

「いーのかよ」
「休戦」
「ヒャハ、お前いっつもそんな感じの癖に」
「ちょっと、」
「あ?」
「ちょっと休んだら、また頑張るから」
「……」
「だから洋一もガンバレ」

 紙屑を両手で拾い集めて、地に落ちた分も近くに設置されていたごみ箱に入れる。キラキラと月の光に反射するプリントだったそれは、太陽の下で見るよりも白くて変に幻想的だった。捨てるの勿体ないかな、なんて考えが一瞬過ぎったけれど、もうどうにもならない。ベンチまで戻って鞄を手に提げたわたしはすすきを取ろうと公園の隅まで足を向けようとした。そのとき、わたしは見定められたかのようなタイミングで洋一に名前を呼ばれる。振り返る。月の光はこんな時にもわたしに味方してくれない。

「あのさ、」

 光を背に立っていた洋一が、どこか幻想的な雰囲気を持っていて、似合わないとも思えたし、似合うとも思った。