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『ココアは温かいよ』

ものの十秒ほどで手馴れた作業を終わらせてわたしは携帯を閉じた。右手に持ち替えたマグカップの温かみを皮膚越しに感じながらわたしは一つ息を吐く。
溜息でも呼吸を目的とするためのものでもなかった。
猫舌だからだ。
口をつけるのはもう少し後になりそうだ。
と、左手に持っていた携帯が静かに震える。
物騒な呼吸を繰り返す換気扇の下に置いた簡素な椅子に座っていた自分の姿勢を取り直す。
このままでいたら腰が痛くなりそうだと判断したためだった。
もう今まで何度となく行ってきた携帯の開閉操作をそつがなく行い、わたしは暗闇に浮かび上がるディスプレイの画面に目をやった。
メール、だと思っていた振動は意外にも着信を告げるものだった。
受話器を斜めに描いた記号が記された小さなボタンを押す。
そっと、スピーカーの位置を耳まで持っていった。

「もしもし?」
『もしもし』
「……もしもし」
『……もしもし合戦かよ』

機械越しに聞こえたいつもと変わらぬ口調の相手にわたしは苦笑を零す。
そっちから電話を掛けてくるなんて珍しいね、という台詞はもしかしたら彼にプレッシャーを掛ける以外の何物でもないのかなと思ったのでそっと胸の内に閉じ込めた。

「練習は終わったの?」
『お前今何時だと思ってんの』
「え、午前一時」
『そうだろ?』
「そうだけど」
『こんな時間まで部活なんてやんねーよ』
「わかんないよ、青道ならやりかねない」

そう言ってわたしは今年の春に行われた関東大会に出向いた時のことを思い出す。
あの時は一回戦で惜しくも敗退したけれど、青道という高校の強さを知るには充分すぎる内容だったのだ。
だからこそ、出た言葉だったけれどそれは虚しくも御幸のそこまでやんねーよ、というあっさりとした返事に一蹴されてしまった。
「そう」としか言えない。

『……で、』
「で?」
『オウムかお前は』
「オウムじゃない」
『いやもう良いわ、何、寝てないわけ?』

御幸の言葉にわたしは、あー、という濁りに濁った声しか出なかった。

「まあそんなとこ」
『で、ココア?』
「そう。美味しいよ」
『いきなり突拍子もねぇメール来たもんだからどうしたかと』
「あ、何、心配してくれた?」

キッチンの背後にある窓を不意に振り返る。
少し硬いプラスチックのブラインドを指と指で広げながら、わたしは御幸の返答を待つ。
いつも通りの声で、いつも通りの調子だった。
だから油断してた。
御幸から言われるのは「そんなんじゃねーよ」とか、そういう、いつも通りの返答が来るんだろう、と。

『まあな』
「……へ、?」

夜のヴェールが空を覆っているけれど外を包んでいるはずの夏の暑さは室内には届いていなかった。
それなのに何故だかは分からないけれど理由も知らない汗が電話を握る手を湿らせていく。
まるで枯れそうだった植物の根が与えられた水分を必死に摂取しようとするみたいに、わたしの皮膚は水分を出しては、欲しがっていた。
マグカップの外側はもう大分熱を忘れ始めている。
そっと口へと持っていくと、未だ立ち上がる湯気が唇を潤してくれた。

御幸もわたしも四十七とある都道府県の中で同じところにいて、距離はさほど遠く離れていないけれどそれでもわたしと御幸の間には壁が存在していた。
違う高校、違う時間、違う環境。
電車で行こうと思えば行ける距離なのに、時々わたしを訳も分からない空虚さが襲うことがあった。

どうして、いつも欲しがる言葉をくれるのですか、と尋ねたかった。
尋ねられずにいた。

「御幸」
『ん?』
「次なんか試合あったら」
『ああ』
「……見に行きたい」
『良いぜ、また連絡する』
「御幸から?」

なんだよそれって、受話器越しに聞こえた笑いに釣られるようにわたしも口元を緩めた。
口に含んだココアが少しずつ、少しずつわたしを眠気という暖かい毛布で包んでいっているようだった。

「どうして御幸はさ」
『なんだよ』
「……癒してくれるよね」
『マイナスイオンは受話器越しでも利くらしいぜ』
「嘘」
『そう、嘘。多分な』

心地良いってじわりじわり来る睡魔はきっとココアだけのせいじゃない。
途切れた会話をきっかけにじゃあなって切り出された終末を寂しがる必要はないってわたしを宥めてくれているような気持ちが確かに存在していた。
いつもそばにいるよ。
そうだね、優しさの塊が語り掛けながらわたしの髪を撫でてくれる。

その手は世界で一番愛しく思う人の手にとても似ていた。