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won't
わたしは彼を困らせようと思っているわけじゃない。


「大丈夫?」

相手の質問には答えられずにいた。

散らばる白いプリントの波。
その中で彼が、手を差し伸べていること。

全部が全部、現実だという証拠はない。
頬を抓ればもしかしたら、痛みはないかもしれない。
けれど、と手の付いてい廊下のコンクリートのひやりとした温度に感覚を集中させた。
冷たい。
ということは、夢じゃない。
目の前に彼が、いること。

「……」
「ねぇ」

変に動揺してしまっていたために、謝ることも忘れて言葉を失っていた。
膝が痛いとか、散らばったプリントの回収とか、そんなことは二の次になってしまっているわたしを訝しげに見下ろしてくる彼の姿にわたしは漸く喉を震わせることを思い出した。

「大、丈夫!」

ああ、格好悪いなぁ。
自分自身で、情けないくらい裏返った声に失望する。
そう、と相手は相槌を打って、でも差し出している手はまだわたしへと向けられていたままだった。

手を取る。
そんな勇気はなかった。


you
あなたとわたしに面識はこれと言ってない。


例えば同じクラスであったならまだ名前を覚えてくれるチャンスやひょっとしたら話すことも、友達になれるきっかけだって掴めたかもしれないのに。
運のなさと、望みのない恋をしてしまった自分に毎日のように後悔ややるせなさを感じていた。
けれどこれはもしかしたら神様がくれたチャンスなのかもしれないのに、わたしは未だに廊下に座り込んだまま、彼の手を見つめていた。
野球部、ってこともあるのだろうか。
初めて間近で見た小湊君の右手は、想像していたよりも男らしさを持ち合わせていた。

「……ええと、」

とりあえず未だに処理能力が遅くなっている頭を必死に使って現状を把握しようとする。
床に散らばるプリントや鞄を見て、ああそうだ、と思い返す。
わたしは、ぶつかったんだ。
誰に?
話したこともない好きな人にぶつかるとは、想像もしなかった。

不意にいつもこっそりと見つめる野球部のグラウンドの風景が頭を過ぎる。


stay
滞在するのはほんの少しの時間だった。


別にそこまで野球に詳しいわけでもないし、何よりあの場所にはわたしと同じ思いを持つ女の子がたくさんいたから。
何となく、気まずくなるのだ。
だって、あの中にはわたしよりも何メートルも何センチも小湊君に距離の近い人がいるかもしれない。
そう思うといつも胸の辺りが苦しくなって、勝手に気分が落ち込んでしまう。

少しの間でも姿を見られたら、幸せだった。
それ以上望んじゃいけない。
その考えはいつしか自分の中での暗黙のルールみたいになっていた。

望みはないんだから、欲しがっちゃいけない。

ボールを追い掛けては爽快に走る彼の姿は、キラキラと輝く星みたいに、遠い存在だった。
何十メートルとしか離れていないこことあちら。
隔絶された世界のようにも思えた。
それは、まるでブラウン管越しに見る有名人を見るような視線の類。


a while
しばらくの間、わたしはどうすれば一番いいのか、と考えを必死にまとめていた。


とりあえず広がっているプリントや教科書を拾わなきゃ。
そう思いついてはすぐに行動に起こす。
差し出した右手が、物理の教科書を掴む。
そういえば今日返された小テストとかも入ってたはず。
見られたくないなぁなんて、考える余裕がこのときはもう発生していた。
ただ直ぐに、真っ白になる。

「はい」

いつも遠くで見ていたはずの彼が、すぐそこにいたから。

「……」
「どうしたの?」

教科書を掴んでいた握力が一気に抜ける。
バサッ、ってぶつかったときに落ちた時よりも派手な音を立てて、教科書が再び廊下に着地した。
……多分、わたしの顔、今真っ赤だ。
気付かれないで欲しい。
そんな一心で起こした反射でわたしは顔を下へと向けた。
ほんの少しだけでも合わさった、視線。
それだけでもうわたしは息が詰まるほど、嬉しくなっていた。

「……どこか痛いとか?大丈夫?」
「えっ!いや、そんな、すいません」
「……え?」
「ええと、ごめんなさい!大丈夫なんで、もう行っていいですよ!」

慌てて紡いだ言葉は自分でもびっくりするほど早口だった。
下を向いていたから彼がどんな顔をしているかは見て取れない。
けど確実に変な奴、とか思われたはずだ。
恥ずかしい、だからお願いします。
もうこれ以上は望まないから。

本当にこのまま彼がここに居たら心臓が止まりそう。

「でも俺のせいだし、手伝うよ拾うの」

嬉しさと困惑がごちゃまぜになって表現しがたい心模様だった。

どうしたらいいんだろう。

それしか心には浮かばない。
少しでも彼と同じ時間を共有することが出来ただけでもわたしは今日と言う日を忘れることはないだろう。
それなのにその時間がまだ延長されるなんて今日は何か特別な日なのだろうか。
もしかしたらわたしは今日だけで人生のラッキー運を使い果たしてしまうのかもしれない。
そんな下らないことを思いながら、わたしはやっとのことで手を動かす。

さっき思い浮かべてた返却された小テストの答案用紙は直ぐに見つかった。


longer
より長く、彼と話すことが出来る日は後にも先にもあの日が最後だと思っていたのに。


「苗字」

昼休み、クラスの男子がわたしの名前を呼んだ。
どうしたの、って、普通に接することはこんなにも簡単なのに。
彼には出来ない。
そんな自分に嫌気を差しながらわたしはわたしの席に近付いてきた男子を見上げる。
にやにやと口元を釣り上げながら何かからかいたげなそいつに不審さを感じながらも、ん、と向けられた奴の親指、視線の先をわたしは釣られるように向く。

呼吸を、忘れそうになった。

「客だぜ」

付け足すように言われた言葉を聞いてはすうっとすぐに消えていく。
聴覚がまるでなくなってしまったかのように教室の喧騒も、聞こえなくなった。
感覚が視覚に全部集中しているみたいだった。

自分のクラスの後ろの扉。
いつも距離を感じずにはいられなかった姿が、あった。

ここでまずわたしは、呼吸を確認する。
次に鼓動、手足の動き。
まるで病気にかかってしまったのではないかと疑いたくなるほどわたしの体は自由を失いそうだった。
それほど、彼はわたしの中で特別な存在であり、わたしをおかしくさせる人なのだ。

多くは望まない。
望んだらきっとわたしは呼吸を本当に忘れてしまいそうだ。

「……ええと」
「この間、俺の荷物に混ざっちゃった奴あったみたいだから」

届けに来たんだ。
そう言って差し出されたプリントに目を疑う。

「あれ、これ……」

小テスト、の答案?
あの日、しっかりと視覚では捉えていたはずなのに、拾い忘れしていたのだろうか。
それにしても、彼もわたしも確認せずに混じってしまうなんて、と微かに笑いが零れる。

「拾ったと思ってたのに」
「え?」
「あ、何でもないです。……わざわざ届けてくれて、ありがとうございました」

微かに見え隠れする点数に恥ずかしさを覚えて強引に制服のポケットに答案を突っ込む。
くしゃってプリントが鳴く音がしたけどこの際気にしていられなかった。

「ねぇ」
「っは、い!」
「……この間も声裏返ってたよね」
「……はい……」

クス、と笑った小湊君に呼応するようにわたしの顔は熱を帯びていった。
覚えてくれていたのは嬉しいのに、なんだろう、すごい恥ずかしい。

「どうでもいいんだけどさ」
「はい?」
「何で敬語なの?」

俺たちって同級生じゃん。敬語要らないよ。

そう続けた小湊君をわたしは咄嗟に凝視してしまった。
何でって、それは、勿論。
彼が、わたしなんかとは違うすごい存在だからだよ。
野球部の練習も試合も時々しか見に行っていないけど、それでも分かる。
彼とわたしは住む世界が違うって。
すっごい極端な話なのかもしれないけど自然と敬語になってしまう理由には鳴り得た。
だからといって、それを言うことは出来そうもないけれど。

あれ、?

そこでわたしははた、と我に返る。

「……あの、」
「ん?」
「どうしてわたしが同級生……って言うか何でわたしのクラス分かったんですか?」
「……」

そういえば小テストには名前は書いていたけど、学年や組は書いていない。
小テストだからって、いつも担当の先生は名前だけ書くよう指示していたのでその日の答案も例外ではなかったはずだ。
それなのにどうして彼はわたしのクラスを知っているのだろう。
答えを聞こうとして、漸くそこでわたしは違うことに気付く。

ドキドキと煩かった心臓が、何故だか落ち着きを取り戻していること。
慣れてしまったのだろうか。
そしてわたしはまたそれ以上を望んでしまうのだろうか。
一瞬恐怖が過ぎったけれど、彼が口を開いたことで思考はそちらに奪われた。

「内緒」
「……はぁ」
「けど、物理ってことは三年だって分かるよね」
「あー……、確かに」
「クラスは……」

彼の声と被さるように、予鈴が鳴り響いた。
口元の動きを見ていたわたしは一瞬、いきなり鳴ったチャイムの音に驚いて肩を上下させてしまったせいで肝心の答えは聞こえず仕舞いだった。

「あの」
「ん?」
「よく聞こえなかったんで……もう一回言ってください」
「んー……何でもない」

いつも浮かべる笑顔でさらりとわたしの質問をかわした彼の姿に不覚にも見惚れそうになる。
そうこうしてる間に小湊君がわたしに背を向けて、歩き出そうとしていた。
慌てて呼ぼうとする。けれど、

小湊君、とは呼べなかった。

「あの!」
「うん?」
「こないだも、今日も、ごめんなさい!それと」
「……」
「ありがとう、ございました」
「だから敬語じゃなくて良いって言ってんのに……」
「……出来るだけ善処します」
「何それ、変なの。……じゃあね、苗字さん」
「あ、は……」

はい。

と言う前にわたしの思考はストップした。
隣のクラスに入っていく小湊君の姿を見送った後、その場に立ち尽くしていると次の教科の担当教員がこちらを見てクラスに戻れ、なんて言っていたけれどわたしの足はなかなか動こうとしない。

苗字さん。

名字を、呼ばれた。
どうして知っているんだろう、と思い返せばポケットの中に小さく丸まった答案用紙の存在を思い出して半ば無理矢理自分を納得させた。
それにしても、彼は先ほどチャイムに被らせて何と言ったんだろう。
そんなことを考えながら後ろ髪引かれる思いでわたしは自分の机へと漸く足を向けた。

名前を呼ばれることがこんなにも心地良いものだとは、初めて知った。
多くは望まないって、決めてたのに。

また、彼に名前を呼ばれたいって、心のどこかで望み始めている自分がどうしようもなく自惚れているように思えた。


here.
「クラスは知ってたよ、だって……、いや何でもない」