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ノリー、ノーリー。

何度目だろう。依然としてヘッドホンを付けたままわたしの隣に座る男はここじゃない、別の世界の人間のようだった。ヘッドホン一つでここまで境界線を引けるものなのだろうかと、半ば感心してしまう。

まるで暑さを滲み出す真夏の音から目を背けるかのように。

溜息を出た。ノリ、ともう一度呼ぶ。何度目だろう、本当に。応答無し。故障ですか?それなら、コールセンターへ。頭の中でそんな独り言を考えながら取り出した携帯電話でワンコール。

呼び出し音と同時に彼が肩を揺らせた。

「……なんで隣いんのに電話すんだよ」

ディスプレイに目を向けながら、空いた方の手でヘッドホンを耳から首に落とした。コードを伝っていって、ベンチに横たわったi-podを見て、うんざりしたようにわたしは携帯電話の終話ボタンをいつもより強めに押す。わたしの携帯から微かに聞こえていた待機時間に流れる音楽がぷつりと止んだ。一瞬の静寂の後、わたしは口を開く。

「何度も呼んだ」
「あ、マジで?何?」
「暇」
「そう」

膝に置いていた音楽雑誌のページを捲りながら、ノリはわたしの方へ目もくれずに脱力したような声を出した。そう、って。それだけ?ごめんとかさ、謝罪はない訳?て言うかわたしの方、見ろよー。

「そんなに音楽が大事ですか」
「気が紛れるんだよ」
「わたしじゃ紛らわせられないですか」
「……」
「折角練習が早く終わって会おうって言われても、これじゃ意味ないって」

丁度お腹も空いて来たし。座り込んでいた青道高校前のバス停のベンチ。時刻表を見ればもうそろそろ次の便が到着する時間だった。

「帰るね」
「……え、帰んの?」
「だって、居てもすることないし」

ノリはさっきから音楽ばっかりに夢中だし。大体どこに行くわけでもないのにこんな所にいつまでも居てどうすんの。口早にそう零すと、漸く聞こえた謝罪、……の軽々しさに苛々しそうになった。ごめんごめんって。それは謝ってる内に、入る、わけなーい。

「俺……さ、今度の土曜の練習試合、先発なんだ」
「あ、そうなんだ、やったじゃん」

右側に見える上り坂の頂上から、広告を車体全面に描いているバスが現れた。帰る準備、と言ってもただ鞄を肩に掛けるだけだ。これからこのバスに乗って駅まで行って、そして一人、家路に着く。いつもの帰り道が少しだけ寂しい気がするのは、きっと目の前にいるノリのせいなんだって、勝手に思うことにした。そんなことには気付かないのか、ノリは立ち上がったわたしをさして止めることもせずに、言葉を続ける。

「先発って、何か慣れてねーんだよ、まだ」
「ノリなら大丈夫じゃない」
「でも、やっぱり、さ」
「不安?」
「そう。だから名前と一緒にいたかったんだけど」
「は、い?」
「別に何したいとかそんなのねーの。ただ、一緒にいたかっただけ」
「……」
「少しでも、会えたから良い」

それは卑怯じゃないか。そんな、そんな笑顔を向けられても。人懐っこさのある笑みに見とれてしまっていたわたしは停留所にバスがブレーキを利かせて止まり、金属音と何かの排気音を鳴らせて扉が開いたことに気付くのが遅れた。戸惑いが、生まれる。その間もノリは一人納得しながら、わたしに向かって手を振ってくれている。なんだ、それ。

「……」
「あれ、乗らねーの?」
「……ずるい」

へ、と驚いたような、虚を突かれたような声を出したノリをわたしは睨む。背後で待ちくたびれたバスの扉が、また音を立てて閉まっていくのを感じた。誰も乗せることのなかったバスはそのまま発進し始め、やがて見えなくなっていった。夕陽がもうすぐ暮れるのか、辺りが薄暗くなり始める。屋根の電灯が付き始めた停留所で、わたしは立ち上がったまま、彼を見下ろすことしか出来なかった。

少しでも会えたからいい、なんて、卑怯だ。ずるい。

「わたしは、」

わたしは、もっと側に居たいって思ってるのに。

「……ノリが良くても、わたしがダメ」
「名前、」
「まだ、居る」
「……」
「まだ、居たい」

まるで子供のように、主語と述語が曖昧な言葉を羅列した結果、唖然としてわたしを見ていたノリが不意に噴き出す。膝に載せていた雑誌を鞄にしまいながら、なくなってしまうんじゃないかって言うくらい目を線にして、ノリは暫し笑っていた。何が可笑しいのっていうわたしの質問に答えられないくらいに。

「ごめんって。そうだな、悪かった」
「本当に悪いって思ってる?」
「ああ、」
「ならそこの公園の自販機でミルクティー、買って」
「子供かよ」
「喉渇いたの」

また笑った。
何だかんだ言って、ノリとこうして話しながら笑い合うことが、わたしにとって一番の嬉しいことだと思う。立っているわたしに並ぶようにノリは立ち上がった。財布から百二十円取り出しながら、肩を並べて歩く公園までの道のりには、煩いくらい蝉が歌っている。それがノリの首に掛けられているヘッドホンから微かに流れる音楽のリズムに合わさっているように聞こえて、わたしは隠れて少しだけ笑った。