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 ちょっと休憩しようよなんて言葉は聞こえない振りをした。入場した時にもらったカラフルなパンフレットを広げながら私の足はどんどんと進む。現在地を確かめるように指で地図をなぞって行くと自然と声が上がった。
 あ、次。

「次?」
「きりんだよ。きりん」
「きりん……」
「背高いやつ」
「それくらい知ってる」
「じゃあマングースは?」
「……それは知らない」
「だよねえ、私も知らない」
「……」
「首ここから見えるじゃん。きりんの首」

 私の指差した方角に顔を向けた彼の横顔を覗き見する。あんまり興味なさそうな目。だけどこうして休日の貴重な時間を私に宛ててくれたことが私には最高に嬉しく思えた。だってあんなに毎日野球を頑張ってる暁がこうして私と一緒にいてくれること。希少価値この上ないじゃん。
 緑に囲まれた園内には休日だからか、結構な人がいた。そのほとんどが家族連れのようで、あちらこちらで子供の声が上がっているのも頷ける光景だった。中には私達のように結婚していなくとも男女二人で来ているような人もいそうだけど見渡す限り今は見当たらない。最近のデートはテーマパークなんて王道なものには行かないのだろうか。

「暁」
「何?」
「暁は今まで動物園行ったことある?」
「小さい時に」
「へえ、あるんだ!旭山?」
「違うけど」
「最近はない?」
「10年くらい振りじゃない」
「そっかー」
「名前」
「え?」
「名前は」
「私はねー中学校の時以来かな」
「……」
「動物好きなんだよね」
「好きそう」
「そう?」
「うん」

 短く切った暁の言葉で私達の会話は一度途切れる。緑の広がる一角からにょきっと現れている黄色の頭が何とも可愛らしい、なんて思いながら私はきりんがいるブースの近くまで小走りに進んだ。多分暁は少し遅れて来る。そういう奴だ。それを嫌とか思ったりなんかしたことはない。それが、暁だから。
 柵越しに見上げたきりんの姿は思っていた以上に大きかった。背の高い木々に口を付け、食事をする様を見る私の顔はきっと間抜けだっただろうな。不意に横に誰かが来た気配がして顔をそちらに向ける。と、小さな男の子が一人キラキラとした瞳できりんを見上げながら、柵に寄っ掛かっていた。辺りに親らしき人物がいない。大丈夫かな、なんて心の中で呟いたと同時に不意に男の子がこちらへと顔を向けた。

「おねーちゃん、一人?」

 その言葉が一瞬ナンパみたいな内容だなと思わず私は笑ってしまう。

「なんで笑ってんの?」
「ううん、何でもない。君こそ、お母さんかお父さんは?」
「ソフトクリーム!」
「え?」
「きりんさんの所で待ってなさいって!」
「……あー、なるほどね」

 よくよく目を凝らして見れば少し距離はあるもののオープンカフェの様な場所に一人それらしき女性がいる様が見えた。ようやく今私がいる場所に辿り着いた暁が背後から私の名前を呼ぶ。振り返ったと同時に彼の瞳が少し動揺を彩った。

「……」
「私の子供じゃないよ」
「それくらい知ってる」
「おねーちゃんの彼氏?」

 元気いっぱいな男の子の声が無邪気に尋ねる。まだ五歳くらいだと言うのに彼氏と言う単語を知ってるなんて最近の子はませてるなぁと私は思わず苦笑が零れた。何て答えようかな、そう考える前に男の子は自己完結をしたのか再び口を開いた。

「僕もね、幼稚園に好きな子がいるんだ! ななこちゃんっていう子!」
「え、そうなんだ。すごいなぁ、僕の……彼女なの?」
「ううん。まだ彼女じゃない。けどもうすぐ小学校になるからその前に言うんだ」
「そっか。上手く行くといいね」
「うん!」

 元気よく頷いた男の子の背後から母親らしき人物が近付いてくるのが見えた。と、男の子の名前を呼ぶ。その名前に聞き覚えがありすぎて私は一瞬頭が真っ白になった。

「さとるー!」
「あ、ママだ」
「……僕、さとるって名前なの?」
「うん、そうだよ」
「そっかあ。良い名前だね」
「え? うん、ありがとう!」

 ソフトクリームを手にした母親がさとる君のすぐ横へとやってきた。空いた方の手でさとる君の頭を撫でながら行くわよ、と穏やかな口調で言う。一度合った目線に迷うことなく会釈した彼女に合わせるように私も軽く会釈を返した。
 ばいばい、と最後まで元気いっぱいのさとる君に手を振りながら私は背を向けて歩き出す二人の姿を見つめていた。じわじわと湧き上がる笑みを隠しきれずに。

「……聞いた?」
「聞こえた」
「さとるだって。名前一緒」
「珍しくないからね」
「好きな子はななこちゃんって言う名前だって」
「知り合いにななこちゃんはいないよ」
「なーんだ」
「何期待してたの」
「運命的な何か」
「バカみたい」

 ふいっと私から顔を逸らした暁に私は怒ったの、と問い掛ける。すぐ返ってくる怒ってない、の返事。本当かなあ、本当だよ。言葉遊びみたいに繰り返す。それを楽しみながら私達はきりんがいるブースから少しずつ離れていく。五歳のさとる君の恋は実るのかな。ななこちゃんってきっと可愛い子なんだろうな。そんなことを思いながら私は少し寂しくなっ、暁の空いていた左手を掴んだ。一度驚いたように私を見た彼はやがて何もなかったかのようにその手をぎゅっと握り締めてくれる。通い合う体温が心地よかった。

「ななこちゃんに嫉妬したとか」
「残念ながら当たり」
「……バカ」
「カバならすぐ近くのブースだよ」
「じゃあカバで良いよ。名前のカバ」
「カバの汗はピンク色なんだよ」
「本当に?」
「多分」
「へえ。ピンク」
「てことは私の汗もピンク」
「やだそれなんか気持ち悪い」
「ひどっ」
「カバだから許される色」

 さとる君のお母さんがソフトクリームを購入した店が近付いてきた。程良く渇いた喉がその光景に何かを欲しているみたいで私はさくさくと進めていた足をゆっくりへと転換した。その意図を汲み取ってくれるのが暁だ。小さくついた溜息と同時に私に合わせるように彼もまた歩調を緩やかなものへ変える。

「自分で買いなよ」
「それくらい分かってるー。暁は?何かいる?」
「牛乳?」
「多分ないと思うよ」
「じゃあラムネ」
「それはあるのかなあ。あ、あるっぽい」

 ソフトクリームの看板が掲げられている車の垣根まで足を進めると快活そうなお兄さんのいらっしゃいませーと言う声が迎えてくれた。私は暁から預かった200 円を差し出してラムネ一つ、と声を出す。右往左往する視点はやがて、定まる。さとる君が嬉しそうにきりんの前で待っていた姿、それを迎えに来た母親の光景。全部が一瞬の出来事みたいに頭の中に流れては消えていく。暁も小さい頃はあんな感じだったのかな。子供を持ったらあの母親みたいに優しい手つきで頭を撫でることが私には出来るかな。ななこちゃんとさとる君がどうか上手く行きますように。そして、
 背後で不思議そうに私を呼んだ暁に店員さんから受け取ったラムネを渡す。その時に自然と触れた彼の体温を私はこの先も離したくないと、そう思った。

「あとソフトクリームひとつください!」



きりんの前