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力いっぱい髪を撫でてくれるその大きな掌が好きだった。いつからだろう、その掌を、男として認識してしまったのは。

「…わたしって、不義」
「む、どうした名前!義の心を見失っているのか?」
「なんでもないですよ兼続さま。うん、もうどーでもいい」
「諦めてはならぬ!義有らばきっと叶うのだからな、いや絶対だ!」
「……………暑苦し」
「何か言ったか、名前」
「いーいーえー」

適当な受け流しをしつつ、辺りを見回す。彼は、どこだろう。自然とその姿を追い求めてしまっていることに気付いたのはいつだったか。あの暖かい手でまた、無造作で構わないから髪を撫でてくれないかと望んでしまっているのは、いつからだったか。記憶を掘り返してもピンと来る出来事は見当たらなかった。多分、自然。それこそ気付かぬ間にわたしの中で彼の存在が大きくなっていた。自然って怖い。わたしの双眸が赤を捉えた。兼続さまに一言告げてからわたしは足早にその場を後にする。近づく姿に、心が鳴った。息が心なしか苦しくなったのは多分走っただけが理由じゃない。

「ゆ、きむらさま!」
「これは名前殿。そのように息を切らせて、どうしました?…何か急用でしょうか」

しまった。呼んだのは良いもの、用事が思いつかない。別段、ないと言ってしまっても構わないとは、思う。何の用事がないときでも彼はいつも通り優しく、受け答えをしてくれるのだから。ただ何となく、自分が幸村様を用事もなしに走って追いかけてきたことに少し羞恥を感じてしまったのだ。黙り込んだわたしに彼は気を配るように再びわたしを呼んだ。名前殿、と。慌てて少し俯いていた顔を彼に向け精一杯取り繕うようにすいません、考え事ですと返せば若干ではあるものの彼の表情が困惑の色を示した。

「何か、悩み事でもあるのですか」
「え、あ、いえ!違うんです…その、別段、急用ではなくて…呼び止めてしまったことに幸村様が気を悪くさせていたら、と」
「構いませぬ。私も丁度暇を持て余していたところで」
「…そうですか。なら、良かった」
「名前殿はこれから何かご予定は?」
「いいえ、ありません。ただ庭先を歩いていたら幸村様を見かけましたもので…」

何と調子のいいことだろうと、自分でも滑稽に思えてきて苦笑してしまった。当然の如く、その感情は彼には分からないので突然笑ったわたしに、不思議そうな表情を浮かべている。しかしそれは次に、安堵に似たようなそれに代わり、不意に頭上に僅かな重みを感じる。大きな、暖かい掌だった。彼の温度を感覚のないはずの髪一本一本が体内に伝えているようで、自然と笑みが零れてしまう。

不義だ、と思った。こうして幸村様に撫でられている間、わたしは他のことなどどうでもよくなってしまう。心地よすぎて、泣けてしまいそうなくらい。世の中のことや、天下のことなんか考えたくなかった。日ノ本のため戦っている武士であるはずのわたしには、あるまじき思考。それぐらい、その穏やかな時間はわたしに大きな影響を与える。

「…ん、幸村様?」
「あ、すみません。つい」

いつもは今ほど突然手を差し伸べてくることなどなかった。少し不自然な彼の言動に今度はわたしが不思議さを覚える。こんな城の庭先で、誰かが通るかもしれない場所でこんなことは今まで一度もなかったから。ええと、と、珍しく口篭るその様子も、珍しいものだった。

「最近は戦ばかりでしたから」
「…え、癒しが欲しいんですか。わたしには無理ですよ」
「そうではありませぬ。名前殿の晴れやかな笑顔とやらを久しく見ていなかった、と」
「……」
「思いまし、て、です…ね、その、笑わないで頂けませぬか」
「………すい、ません…何か、どんどん顔を赤くされるものだからつい…」

彼の、目まぐるしい変化に耐えられなかった笑いを数刻続けてしまった。その間はいそいそとわたしの頭上から手を引いた彼が不機嫌そうにこちらを見てくる。ああ、だから戦なんてどうでもよくなる。こんな穏やかな時間がいつまでも続けば、いいのに。

「幸村様、」
「はい、なんでしょう」
「この名前、幸村様への用事を思い出しました。…もし暇が御座いましたらこの私めを暫しの話し相手としてやって下さいませ」
「………喜んで、受け賜りましょう」


(きみを彩るその色が穏やかだから、笑えるのです)