×小説 | ナノ









やけに遠い、空だった。聳え立つ雲の流れは早くて、白い。それにしても暑い。額の汗を拭った手の隙間から瞳に差し込む太陽の光が眩しい。いくら平地より標高の高いこの場所でも太陽が近ければそれだけ暑い。言ってしまえば日没後はまるでそれまでの暑さが嘘だったかのように寒い夜が訪れるのだ。刈り取った羊の毛はふんわりとしていて心地良い。籠いっぱいに溜まったそれを一度舎に置いてこようと、取っ手を両手で握った時だった。

かさ、と言う草の鳴く音が聞こえた。

羊の足で踏まれた音とは異なる、それ。咄嗟に手を離し、音のした方向に目をやった。誰かいるのですか。そう聞こうとした口は、呆然さに囚われた。目の先。それほど分厚さはない書物が一つ、落ちていた。

「……?」

わたしの民族には書や文字はない。時たま訪れる商人が持ってくる書物や冊子が珍しく思うくらいだ。それが今、目の前にある。いきなり空から降ってきたのだろうか。物珍しさに反射的に目を丸くしたわたしはすぐに空へと視線をゆっくり、移動させた。その途中。

「……誰ですか?」

視界に入り込んだ、人の姿。空ではなく大きな樹木を背景に、男はいた。欠伸を一つ零し、面倒くさそうにわたしを見下ろした。

「いや、気にしないでくれ」
「気にしないでくれ、と言われましても……」

近寄ってきた羊が、すいっとわたしの体にまとわり付いてきた。この群れの中でもよく懐く雌の羊だった。いつも牧羊犬に追い回されては、わたしの元に寄ってくる。まるで人間のような羊の頭を、そっと撫でた。樹木の枝に器用に寝転がっていた男が、その体を起こした。

「羊をただ、眺めていただけだ」
「……羊が好きなんですか?」
「……」

根元に近寄ったわたしの後を、羊が追ってくる。屈んだ手は、書物を手にした。羊の毛とは似ても似つかないくらいザラザラしていた。音は、ない。けれどすぐに気付いた。彼が、いつの間にか地上に足をつけていたこと。

「すまぬな。どうやらうたた寝をしていたようだ」

微かに笑って、わたしから書物を受け取る。銀色の髪の毛はとても珍しい。もしかして彼は樹精とか、そういう類のものではないだろうか。そう考えれば着地の際の無音も納得が付く。などと考えながら不思議そうに男を見ていたわたしの目が、あることに気付く。弁髪。

「……新しく此処に来た人?」
「ほう?」
「弁髪だから、同じ羌族でしょう」
「そうだな、私は羌であった」
「……であった、?」

言い方に少々の違和感を感じた。さく、さく、と、しっかり草を踏みしめながら羊はわたしから離れ、仲間を求めたのか、群れのある方向へと行ってしまった。何となく、気まずい。わたしの質問に早く回答してくれないだろうかと、催促の意味も含めて彼を見る。何か考えていたのか、顎に手を添え、それでも微笑は忘れていない。

「……今は人ではない」
「え」
「仙人……と言えばお前にも分かるだろうか。羌の子よ」

仙人。分からないはずはない。神を天とし、王朝の一番上にそびえる者を天とし。この世界で、仙人を知らないものなどいない。信仰だとかそんなものはあまり信じたくない、と言うよりも王朝の人間だけがするものだと思っていたからあまり関心がなかったのだが。よりによってそういう人間に仙人は出会いやすいのだろう、か。とにかく彼を見つめたまま、うん、と驚くほど気の抜けた返事を返してしまった。クツクツ、と笑う声がする。本当に愉快そうだ。

「仙人様がどうしてこんなところで?」
「さて、な。ただ、羌の集落を見つけたのでな、少し懐かしみが湧いたのやもしれぬ」
「……羌族に戻りたいのですか?」

面白いことを問うな、童子よ。と彼はまた笑う。これでももう立派な十七だ。馬鹿にされたようで、顔が熱くなる。汗が伝っていた顔が更に熱気に帯びていく。木を削いで細くした羊を見張るための杖を手持ち無沙汰に握りなおして、それとなく羊を確認する。柵からは出ていないようだ。もし出ていたら……お咎めだけは勘弁。そろそろ番に戻らねばまずいかな、と仙人様に対して別れの挨拶はどれがいいだろうと巡らせた時だった。

「童子よ」
「……今年で十七でございます」
「そうか、ククク……それは失礼した。娘よ、お前は羌であることを誇りに思うか」

なぜ、そんな質問をしたのだろうか。仙人様の考えはよく分からないが、とりあえずわたしは自問自答をしてみた。空が、青かった。都へ行ったら、こんなに近くに空を感じることは出来ないと商人は笑っていたことがあったな、と思い出す。この視界が当たり前であったわたしにはその時は衝撃的だった。来ている服も、頭髪も、一風変わっていて少し抱いていた憧れが一瞬に冷めていく気がした。どんなに魅惑的な店や流行があれど、それならば、今のわたしではなくなってしまうだろう。この空こそ、青さこそ、暑ささこそ。わたしを作り出す要素そのものなのだから。

「羌でないわたしなど、考えもしませぬ」

そう答えたわたしに、満足そうに笑った仙人様は次にわたしが羊を確認した際にその姿を目の前から消した。なんなんだろう、と零しつつもう回答は返ってきやしないか。深呼吸にも似た息を吐くと、先程の雌羊が再びこちらへ向かってくるのが見えた。



あまつそら
天に届かない掌が、清らかな空気を握り絞めた。