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※ ちょっとあやしい(R15くらい)



 定時上がりの執務室。私と彼以外、誰もいないその場所に静かに風が入り込む。さらさらとはためくカーテンを横目に、窓が開いていたことを初めて知った。広々とした机に行儀悪く座った私の視線が無意識に戻っていく。心臓が煩いくらい鼓動を主張して、止まなかった。

「息、」
「ああ、嫌かね」
「……じゃないですけど」
「それならもう少し、良いだろう」
「ここ、執務室ですけど」
「そうだな」

 肌から直接感じる息遣いに心臓が跳ね上がる。こうして異性に抱かれるのは初めてのことではないのに、思考は依然として追い付いて来てはくれなかった。

「嫌ならすぐに離すとさっきから言っているが?」
「……」
「否定しないのなら、離さない」
「大佐、」
「いや、正確には離したくない、だな」
「ずるい、です」

 落ち着け。
 そう言い聞かせても、落ち着かない。きっとこの体勢に慣れることは暫く無理がありそうだった。

「ずるい? 私がかね」

 肌に当たる彼の吐息。背中に回された腕。首から鎖骨辺りにかけて感じる柔らかな黒い髪。

「そうです。私が否定出来ないって、知ってるくせに」
「そうかもしれないな。だが、」
「……?」
「名前も、悪い」
「私、?」
「そう」
「どうしてですか」
「私に、こんな感情を抱かせるから」

 優しさなんて要らないのに。

「……っ」
「そうだな、私は君の言う通り、ずるいかもしれない。でもそうさせるのは他ならぬ名前、君だ。だから私は、今すぐにでもここで名前を抱く」
「……それとこれとは話違うと思います」
「そうかね? 同じさ。どちらも同じ私の感情についての事実だ」

 それなのに彼が与えてくれる温もりの全部が、泣いてしまいそうなほど暖かい。
 抱き締められた腕が一層強くなったかと思うと、私はいつの間にか先程まで腰を下ろしていた机に寝ころんでいた。そしてそれに加えて、変化がもう一つ。私を抱き締めていた大佐の姿勢だ。

「大佐」
「何だね」
「こんなの、どうにもなりません」

 視界に入り込むのは日常ではあまり見上げることのない執務室の天井。それから大佐の、少し切なそうな笑みだった。
 おかしい。彼には私ではない相手がいるはずなのに。そう、些細な噂程度の確信でしかないけれど、彼には私ではない誰かと関係があったはずだ。それなのに、

「もし私を大勢の中の一人にする気なら、止めてください」

 それなのにどうして今、あなたは私を見つめているの?
 息が詰まりそうな程の距離で大佐の綺麗で深い色を持った瞳が私を射竦める。その中心に私が映り出されていることは、素直に認めてしまえば嬉しかった。けれど、私に対して彼が本気でないのであればこんな状態は虚しいだけの話だ。

「その他大勢にするくらいなら、いっそ私との接点、全部切ってください。左遷も結構。その方がマシです」
「そうだな。名前、君には相手がいる。そして、私にも」
「……」
「少し、悪ふざけが過ぎたようだ」

 抱くとか、抱かないとかの話ではない。虚しいか、虚しくないかの話。

「悪ふざけしたって認めたならこの体勢止めてくれませんか? ただでさえ誰がいつ来るかも分からないのに」

 それとも彼はそう認めた上で尚、私を抱くのだろうか。それなら私も私で、随分な男に心変わりしてしまったものだ。

「もちろん、止める気はない。それと君を迎え入れた後しっかり鍵は閉めた。心配は要らないさ」
「なっ」
「まずは先に、謝ろう」
「え?」
「残念ながら悪ふざけし過ぎた結果が、これだ」
「……?」

 目の前の彼ではない男に貰ったリングはまだ左手にはめていた。それが唯一残る、大佐への抵抗。けれどそこに付随する価値なんて、彼の前では塵にも等しいものだろう。そっと肌を這うように伸びた彼の手が私の指をゆっくり撫でる。

「本気になるつもりはなかった」
「……」
「名前の言う通り、ただの駆け引き、遊び、ゲーム、どう表現しても構わないさ。それでも、中にはたかだかゲームでも本気になってしまう子供だっている。そうだろう?」

 ぞくりと肌を震わせた私に彼は、笑った。ただただ、笑った。ゆっくりと、古い映画をスロー再生していくように。ノイズと、粗い映像。上手く機能しない視覚が捉えたのは彼が私の指に手を這わしている場面だけだった。そこからは感覚だけが頼り。
 目を閉じると同時に、私のくすり指から指輪が外されたのを触覚が教えてくれた。

「君を拘束するのは一つだけだ」
「大佐?」
「この指輪じゃない。これから名前を拘束するのは、私の腕だ」
 ぼんやり、意識が混濁していく。瞳はいつの間にか、涙を溢れさせていた。いつからだろう。
 泣いてるのかと聞かれたけれど私は首を振って否定した。本当は、泣いてる、だけど。泣いているのは、負の感情じゃない。

「その他大勢に入れるつもりはないさ。たかがゲーム、といってもどうやら私は本気になってしまう質らしい」
「子供、ですね」
「何とでも。その代わり、これ以上身体の抵抗は認めないぞ」
「……」
「お望みなら愛の言葉でも囁くが?」
「……要りません」
「そうか」

 結婚を誓い合った相手に対する罪悪感の入り混じった、嬉しさだ。そして、

「その他大勢にも言いそうな言葉なんか要りません」
「何が望みかね」
「……」
「罪悪感を一緒に背負うことか? それならお安い御用だが」
「埋めてください」
「……?」

 そして、虚しさが埋め立てられていく証。一筋の涙が横たわる私の顔を流れ、ゆっくりと耳の方へ向かっていく。その感覚に肌を震わせながら、宣言通り私を拘束した彼の腕を見るために顔を横に向けた。それが合図となったらしい。

「私の、寂しさを、私を大佐で溺れさせてください」
「……容易いな」

 涙と共に彼の暖かい舌が私の耳へ入り込んだ。

「っ……、」
「女性の涙は拭うのが当然だろう?」
「……っ舌じゃなくても」
「生憎だが両腕は塞がっていてね」
「ずるい……っ」

 痛さを訴える腕のことなど、どうでも良くなった。鼓膜に直接感じる吐息、振動、感触そのどれにも耐えきれず私は目を伏せた。「名前、」「名前」。彼が私の名前を呼ぶ。酷く切ない声色で。
 首元に移動した彼の口が私を翻弄していった。何年も一緒だった相手の声が、反響する。まるで取り憑かれてしまったようだ。幻聴か。瞼を閉じると思い描いてしまう罪悪感の相手の声、姿。彼はどんな反応をするだろう。告げなければならない事実、言葉。それを考えている隙を大佐が与えてくれることは、当然なかった。

「……っあ、う」

 大佐が私の指から抜いた指輪がキラリ、まるで私を侮辱しているように光っている。私は大佐に抱かれながら、それを視界の片隅でずっと、いつまでも見続けていた。







無邪気な感情は悪意を孕む
憎んでくれていいよ。でも、もう戻れない。私は墜ちていく。二度と戻れない場所まで。