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 つまらなさそうな表情を浮かべ品定めを施した後で、一つ頬張る。冷めきったコーヒーに口付けて溜息を隠しながら呼吸を繰り返す私を笑う仕草は驚くほど普段通りだった。誰が作ったか、なんて覚えている可能性の低い代物を見つめる彼の顔をそっと覗き見しては後悔する。口元に象られた三日月に私が無意識に眉を寄せてしまうのはいつものことだ。一つ、溜息を落とす。
 面白くないと零せばいつも彼は反対の意見を述べる。私は面白いのだよ。私と私。同じ一人称なのにここまで雰囲気が違うものも珍しいだろうなと机に置いたカップから視線を逸らす。彼のデスクを通り越した外の世界。青色が私の瞳を彩った。人を幾度となく殺めてきた私の目も今はきっと綺麗な色彩を持っているのではないだろうか。青色の空はそれくらいの影響力を持ち合わせていそうだ。気休めだろうけど。拭えやしない。都合の良い解釈なんて、事実から簡単に目を逸らすことの出来る、単なる道具。

「隠しもしないとは」
「……はい?」
「珍しいな、苗字少尉」

 私を呼ぶその声が憎たらしい。どうせ気付いてやしない。あなたの些細な言動の一つ一つに私の心が欠けていってること。誰から貰ったんですか。尋ねる声に、さぁな、なんて無機質とも思える返答。半ば納得させる自分の心情がやがて一つの結論を弾き出していた。もちろんそれは、虚しさの塊。彼の容姿、地位、性格。どれをとっても女性にとってはこれ以上ないくらいの完璧さ。そんな人なのだからこういうことが珍しいわけじゃないとは分かってた。けれど、私もその内の一人かもしれない。そう思うと触れられることにも戸惑いが生まれてしまうのは当然のことだと思った。私だけじゃなくて他の人にも同じように触れているの。今この関係が壊れることの方が私には怖くて、聞けずにいる不満。それが溜息と形を変えて現れていることに彼は随分と前から気が付いていたような口振りで笑った。

「溜息。いつもなら隠すだろう」
「お気付きで」
「私を誰だと思っている」
「女性の言動に鋭い男・ロイ=マスタング」
「前半は要らないな」
「……別に私が溜息を付いちゃだめなんて法律は制定されていないでしょう」

 法律か。規模が大きいな。そう笑った大佐がまた一つ、クッキーに手を付ける。その背後に広がる空を見ながら、ゆっくり私は目を細めた。自由に羽ばたく鳥が見える。電気を付けていない室内から見る空の、なんと眩しいことか。不意に止まってしまったペンを意図的に滑らせながら頬杖を付いた私を彼はどう思っただろう。確認するのもおかしい話だと、視線を窓からまっすぐに自分の机と戻した。積み上げられた書類の山は一体いくつ、あるのだろう。一つ、二つと数えて止めてしまった昼休みが遥か昔のことにも思えた。そんな状況の室内に一人の声が響き渡る。そういえば、なんて。白々しいような話し方だと笑いそうになった。こういう切り出し方は、彼らしくもない話をする時。

「今日、昼にな」
「そのお話は何分ほどお時間頂きますか」
「すぐ終わる」
「そうですか」
「一人の女性と食事を共にしたんだが」

 それはそれは。返答した私の言葉は先ほどの大佐の言葉よりも人間らしさのない言い方だっただろうか。朱肉に押し付ける判子を持つ手に無意識な力が加わっている。無機質に答えられるようになったのは軍人という職業に就いた成果だろうか。書類に貼っていた付箋を咥えた後で、静かにゆっくりと判子を清書した書類に押していく。こんなことで動揺したところで、得などひとつもないだろう。

「ああそう。今日の日替わりはなかなかだった」
「では今日の女性はいかがでしたか」
「失礼な。まるで女性までも日替わりにしているような言い方だな」
「そう聞こえなかったのならもっとストレートに言いましょうか」
「……」

 怒っただろうか。グッ、と書類に押し付けていた判を離す。多少歪な形になってしまったけれど、却下されることはないだろう。そう思いながら、再び整理しやすいように緑色の付箋をその上から貼り付けた私は、次の書類に手を伸ばす。目を向けなくともどこにあるか整頓した書類の山。その一番上で私の手を待っていたのは、彼だった。驚きで一瞬喉が鳴ったのを感じた。聞こえてしまっただろうかと心配するよりも先に考えなければならないことがある。先ほどまで自分のデスクにいたはずなのに。

 気配を捉え切れなかった。
 四六時中、考えている彼の存在を感じ切れなかった。

「来月、結婚するそうだ」
「……は」

 重ねられた、いや正しくは自分から重ねにいった手。その温度を嗜むように触れる彼の表情は掴みきれないものだった。どう、解釈すればいいの。一つ一つの細胞に触れるように、私の手を這う彼の指先。何とも言い切れない感覚にあと少しで声を発しそうになったところで彼が、そっと手を離す。安堵するのも束の間、次の手が待っていた。

「新郎とやらにプレゼントしたいそうでな」

 椅子に座る私の髪に、ゆっくりと彼の手が伸びてくる。一房、掴んだその手の温度を神経の通っていないはずの髪から伝わってきそうで、思わず顔を背けた。けれど視界の中にはまだ彼がいる。ああ、キス、される。思ったと同時、彼が長い髪に唇を当てていた光景が視界の片隅に確認されて、心臓がちくちくと針に刺された感覚に陥った。煩いほどの鼓動。手馴れたようなその動作。生じる矛盾がいつまでも私を苦しめて止まない。

「……話が、見えません」
「そうだな。回線を使って報告でもしようか」
「ぐ、軍の電話の私用は禁止されてます」
「『君なら良い妻になれる。昼に頂いた試作品のクッキーも美味しかったし、彼もきっと喜ぶだろう』」
「え、」
「それともう一つ。『結婚式には是非とも私の未来の妻にも来て貰おうと思っているんだがどうかね』」
「た、いさ?」
「やれやれ。ここまでしても伝わらないか」

 髪に当てていた唇がゆっくりと弧を描く。心臓部分を手で押さえながら彼の方へ再び視界を向けたとき、鮮やかなブルーが一面を覆った。窓からいっぱいに広がる青色に映える彼の黒髪。太陽の光に反射して視界が途端に眩しさを覚えながらも私は必死に縋った。目を凝らして眩しさに反逆する。彼を見失いたくない、と。



「勘違い」
そして言葉は続く。