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 ふうっと体中から鬱陶しさを吐き出したがっているような溜息が執務室に木霊した。重なっているファイルを机でトントン、と整えるわたしの気を引こうとするとき、彼はいつもそうする。珍しく口元を真一文字にきつく結んでそこに余裕と言う文字は浮かび上がってこない。苦笑したくなるほど彼は億劫そうだった。意地の悪い質問が幾重にも考え付いてしまう自分の性格の悪さにわたしは笑った。口に出そうとする質問は今の彼にとって一番嫌がるものだと知っていながらもわたしは口を開く。

「どうでした?」
「……君は本当に性格が悪いな」

 わたしが淹れたコーヒーの注がれているカップを持ち上げながら、彼はそう呟いた。十中八九そう来るだろうと想像付いていたわたしは更に口元を鋭くさせる。それに対して、彼はどんどんと困ったような表情を深くさせるものだから可笑しいとしか言いようがない。ファイルの中身はもう充分に確認したから後はこれを提出するだけ、と机の端に寄せて、わたしは自分用にも淹れたコーヒーをようやく目の前へ置いた。一口、苦いと思ってもどこか香ばしいその味にやんわりと心が浄化されるような感覚を覚える。

「お偉い方々は相変わらずさ。この私の若さがとても妬ましいらしい」
「そうですか。それはそれは」
「到底相容れる気がしないな」
「相容れる気なんて始めからないでしょう」
「まさか。迎合ならいつでも大歓迎だ」
「性格が悪いのはそちらも一緒ってことで」

 軍の上層部と時折行われる会議には大佐という地位にある彼も出席を強いられる。そしてその後は決まって彼の口からは溜息と愚痴と、皮肉が零れるのだ。それを聞くのはいつもわたしの仕事。アフタヌーンの休憩時間、刻一刻と終わりに迫るその僅かな時間はわたしにとっても彼にとっても貴重なものだった。二人きりでいる滅多にないものだからという理由もあるけれど何よりこの時だけは彼の本当の姿を目にすることが出来る。

「そういえば名前」
「ここではファーストネームはお控えくださいな」
「そんなのはどうでもいいのだよ。今日は定時上がりらしいが」
「え? まあ」
「始めに言っておく。深い意味はないぞ」
「はあ」
「食事でも一緒にどうかな」
「食事だけ、でしたら良いですよ」
「深い意味はないと最初に言ったはずだが」

 手厳しいね、と今度は些か軽めの溜息を吐いた彼が味わうようにまたコーヒーカップに口付ける。ほぼ同時進行で手に持つ書類に目を通しては何かを書き足して、またわたしを見る。休憩の間くらい手を休めたらいいのにとは思うけれどきっと、とわたしの頭には自惚れとしか捉えようがない考えが浮かんだ。きっとわたしとの約束に間に合わせたいがため。

「それにしても君は本当にガードが堅い」
「緩いほうが良かったですか? 大佐以外にも」
「一言多いのだよ君は」
「……別に堅いという自覚はありません」
「自覚の話じゃない」
「そうですね、無理矢理抱かれるのが嫌いなだけ、という話でした」

 わたしの発言に彼は滑らせていたペンを持つ手を止める。興味、というべきか図星というべきか、表現のしづらい表情がこちらを見た。わたしはその目線に時々合わせては、すぐにコーヒーの置いてあるテーブルへと戻したり、自ら招いたこの状況に、挙動不審を持ち合わせていた。時計の秒針が動く音しかしない室内で、再び彼が気まずそうなリズムでペンを走らせる。先ほどまでの滑らかさはどこへ行ったのやら、止まっては進み、進んでは止まる。それは何故だかわたしへ言葉の催促をしているようにも思えてしまった。

「知っています」
「何をだね」
「あなたが我慢していること」
「……」
「言いたいことも言えない。まだその時ではないから」
「軍事会議のことを言っているのかね」
「それがある日にあなたは決まってわたしを抱こうとする。都合の良い女なら他を当たってください」
「そんなつもりはない」
「そうだろうと思います」
「ではどういう?」
「愛し合いたいのです。わたしは」

 「わたしはあなたの女だけど、物じゃない」
 強く言い切った後には爽快感が生まれる。その爽快感が、彼はいまだに感じられずにいる。上を目指す今、は彼にとって辛く我慢の日々かもしれないけれど。整えたはずのファイルを再びわたしは平らな机の上でトントンと揃えて、立ち上がった。大きな彼の事務机の上にそれを置いて、二歩、三歩程後ずさる。ゆっくりと下げた頭に、彼の息を呑む音が聞こえた様な気がした。

「上司に食むかような口振り、大変失礼致しました」
「……いや」
「定時になりましたら迎えに来てください。あ、別に定時でなくとも仕事が片付き次第で構いません」
「本当に君は最悪な女だ」
「そう言ってくれるのはあなただけです」
「そうか。それなら良い」
「場所はお任せします」
「ああ。考えておこう」
「それじゃあ失礼します」

 結構だ。了承を貰ったわたしはすぐさま空になったカップを二つ御盆に乗せてこの広い室内を横断しては扉の前に立つ。取っ手に掛けた手をそのままに、わたしは自分でも少しびっくりするような大きさの声で彼の名前を呼んで
いた。ロイ、と。当然のように彼は何だね、といつもと変わらない返事をわたしの背中へ向けてしてくれる。そんな小さくとも当たり前のことが嬉しくなった。

「あなたがいつか頂上へ辿り着いたとき」

 片手に持った御盆のバランスを取りつつもわたしは心の中でもう一度ロイ、という名前を呼んでみた。

「その時が来たら好きなだけわたしを抱いて良いですよ」

 そう呼んでいるのはわたしだけであってほしい。深い意味はないのだけれど。