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ND2018 シルフリデーカン ノーム 21の日


 朝からわたしは多忙に見舞われていた。これが明日であったなら、きっとわた しはこのマルクト帝国軍、軍基地内より行方をくらましていたかもしれない。未処理の書類たちが、本当の山ではないのかと疑いたいたくなるほどに重ねられている光景を見て、わたしはひっそりと誰にも聞こえないように溜息を零した。

(……間に合えばいいけれど)

 かっちりとした軍服の上を脱ぎデスクの背もたれにそれを掛けて、わたしは椅子に腰を落とす。見上げたくもなければ、机の上も見たくない。それが本音だった。

「大尉、お疲れの様ですね」

 ふと自分の名前を呼ばれてわたしはようやく顔を上げた。フリングス少将が、大変重量がありそうな書類を両腕に抱え、こちらに笑みを向けていた。ひとまず一礼をする。そして、顔を上げたわたしに待っていたのは同情的とも、申し訳なさそうとも取れる、彼の微妙な表情だった。

「フリングス少将こそ。溜まりに溜まってますね」
「ええ、まぁ。ここの所、外での公務が多かったでしょう?皆、事務処理にてんてこ舞いなんですよ」
「わたしだけじゃないってことか……」
「え?」
「いいえ。神様がいるなら、罰が当たったのかと」
「何のですか?」
「今日の朝、無意味に有給を取ろうとしたこと」
「そうなんですか?」

 至極可笑しそうに顔を綻ばせながら、彼はやがて何かに気付いたように、ああ 、と声を上げた。どうしたのかと尋ねようとした刹那に彼が的を射たように言葉を紡いだ。明日ですもんね、と。

「……知ってたんですか」
「ええ、残念ながら」
「最近フリングス少将、大佐に似てきました」
「そうですか?」
「はい、返答の仕方とか」
「じゃあこの調子で優秀さとかも似ていったら良いのですけどね」

 それじゃあ失礼します。そう言って彼は相変わらず重たそうな書類と共にわたしのデスクの横を通り過ぎた。今思えばどうしてわたしのような下っ端にも敬語を遣っているのだろうか。彼らしいと言えば彼らしい謙虚さ故なのかもしれない。

「さて、と……」

 息抜きも休憩もここまでだ。日付が変わる前に、これを一段落つかせなければいけない。すぐ近くにあった書類に手を伸ばすと、わたしは気だるげにペンを握った。
 明日は、とても大事な日なのだから。

* * *

 ぐん、と背伸びをした。時を刻む音機関にちらりと目をやれば、もう日付が変わるまで、一時間となかったことにわたしは予想以上に慌ててしまった。折角整えた机の上のペンスタンドが音を立てて倒れる。隣のデスクの部下が大丈夫ですか、と眠たげにこちらを覗き込んできた。大丈夫、矢継ぎ早にそう答えながらわたしはそれを再び整える。

「あ。あった」

 書類の束で隠れていたけれどそういえばここに置いていたのか。明日という日のために購入したあるものが視界に入り込んで、心臓が少し鼓動を増していく。彼のイメージである鮮やかなブルーの包装紙に包まれた小さな箱を手に取って、わたしは椅子に掛けていた軍服を手早く羽織った。

「ごめん。先上がるから」
「書類は、」
「もうほとんど終わった」

 痛みを訴える目の頭を抑えて、わたしはこれからなのだから、と眠気を我慢する。ほっとしたようにわたしを見た部下がお疲れ様です、と労わりの言葉を掛けたのを最後に、わたしは部屋を後にした。通い慣れた軍内部のある部屋に通じる廊下は少し寒くて徐々に冷たさを増す手先に息を吹きかけながら、歩くペースを速める。きっと、きっと彼はまだこの施設内にいる。一見当てずっぽうとも思える考えだけど、正解率はほぼ百パーセント。下っ端のわたしですら、あんなりに仕事があったのだ。それ以上に地位を持つ彼の仕事は、……想像も付かないことは考えないでおこう。うんざりした気持ちを、無理矢理心の片隅に追いやったところでわたしの足は無意識に止まった。彼の、執務室だ。

(わー、緊張する)

 ぎゅっと、箱が潰れない程度に小さく力を込めた、彼へのプレゼント。勇気をください、誰に願うでもなくそう呟いて、わたしは掌を前へと差し出した。コン、コン。思いのほか小さかったけれど、夜も更けたこの時間帯の、無人である廊下にはそれ以上にノックの音は響き渡っていた。
 どうぞ。
 くぐもった声が、返ってきた。どきん、その答えを待っていたと言わんばかりに心臓が跳ね上がった。

「し、つれいします」

 どもってしまったことで、彼に違和感を与えてしまわなかっただろうか。それだけが、心配だ。
 丁度、長針と短針が交わる直前だった。間一髪セーフ。安堵の息をこっそりと吐いて、わたしは足を踏み入れた室内を見渡す。想像は外れてしまったようだ。てっきり執務室中、書類で埋めつくされているのだろうと思っていたのに、そこは意外にも閑散としていた。広々とした室内に置かれたこれまた広々としたデスク。わたしのデスクの何倍だろうか、ここに来るたびにいつもそんなことを思ってしまう。その場所に座り、黙々と仕事をこなしている男の姿がやけに眩しく見えてしまうのは、眠いせいだろうか、それとも。何とかは盲目。きっと後者だ。

「どうしたんですか、こんな時間に」

 目線を下に落としたまま、彼が口火を切った。その言葉からわたしは何とも言い切れない感情が湧き上がる。もしかして彼は、忘れているのだろうか。
 明日が彼にとって、特別な日であるということ。

「仕事、どうですか?」
「……」
「あ、えーと。仕事どう?終わりそう?」

 二人っきりであるときは敬語を遣わない。言われたわけではないけれど暗黙の了解として成立する約束を元に彼が不機嫌そうな声でわたしを呼ぶ。それにいち早く気付いたわたしは改めて言葉を言いなおしながら、ポケットに突っ込んだ手で、手持ち無沙汰にプレゼントを触れていた。

「そうですねえ。粗方終わりました」
「今日中に帰れそう?」
「おや、それは難しそうですね。あと一分少々で日が変わってしまいます」
「……そうだよ」
「……はい?」
「もう、今日が終わって。『明日』が来るよ、ジェイド」

 どうしたんですか?
 漸く彼が顔をこちらに向けてくれた。些か躊躇いがちに、わたしは彼と視線を合わせた。
 綺麗な瞳が、わたしを縛り付けているようだった。

「ほら。あと十秒」
「……?」
「……五、四、三……一、」

ND2018 シルフリデーカン レム 22の日

「一体な」
「ゼロ!ジェイド、ハッピーバースデイ!」

 恐らく想像以上にわたしの声が大きかったせいもあったかもしれない。けれど見開かれた彼の瞳から、わたしの想像は確信へと変わってやがて彼の忘れていました、という言葉によって正解だと笑うことになった。差し出した包装を、わたしを、じっと見つめるその視線の強さに異様な気恥ずかしさを覚えながらわたしはそっと口を開いた。

「だと思った」
「そういえば今日は私のバースデーでしたね」
「そうだよ。だから来たのに。本人がすっかり忘れてるなんて」
「まぁ、この年で祝われるのも、なんだか妙な感じがしますしね」
「確かに、そうかもしれないけど……」

 嫌だった?わたしの素直な問いに彼はここに来て漸く、口元に笑みを浮かべてくれた。そして静かに立ち上がると、デスクを間に彼の正面に立っていたわたしのすぐ近くへ歩み寄る。差し出していた手に、そっと彼のグローブ越しでも分かる体温が重なった。

「ありがとうございます」

 きっと。わたしはこの言葉が欲しかったんだと思う。嬉しさと幸せと、高揚が胸いっぱいに広がって、わたしは顔一杯に笑みを浮かべた。彼の一挙一動にこうして反応してしまうなんて少し悔しい気もするけれど今はそんなことどうでもいいんだ。穏やかな彼の瞳がとても愛おしくて、わたしは今まで引き摺っていた眠さや気だるさなんてまるで吹き飛んでしまったかのように元気さを取り戻した。

「中身はなんですか?」
「ひーみーつ」
「おやおや、それは楽しみですねえ」

 愉快そうな声を上げながらするすると器用に巻かれているリボンを解いていくその手を見つめながらわたしは高鳴る心臓を彼に聞こえないようにすることで精一杯だった。気に入られなかったらどうしようとか、要らないとか、そんなマイナスな反応しか見えないなんて。好きだからこそ、の、不安なんだと思う。

「ああ、万年筆ですか。ありがとうございます」
「……要らない?」
「一体何の不安ですか」
「えっ、顔に出てた!?」
「はい。それはもう、『気に入ってくれなかったらどうしよう』オーラが」
「うっ」
「気に入らない筈ないじゃないですか」

 「あなたがくれたものなら、何でも嬉しいです」さらり、とどうしてこんなことが言えるのだろうか。顔が瞬間的に沸騰してしまったような熱さを帯びる。それを可笑しそうに笑う彼が、そっとその万年筆をデスクへと置いた。その一部始終を行う彼の横顔を、不思議そうに見ていると、わたしの視線に気付いたのか、彼が再び目線を合わせてきた。にこり。……あ、知っている。この笑みは、何らかのイタズラを思いついた子供みたいなこの笑い方は。

「さて。それじゃあ、今日は私の誕生日ですし」
「わ、ちょ、ジェイド」

するりと回された彼の軍人らしからぬ腕が、私の体を軽く、引き寄せた。これは、これは。ひ、非常にまずい事態ではないでしょうか。いや、でも今日は特別な日だし……けれどここで許してしまったらきっと今後もこういうことが起こりそうだ。ああ、もう、どうしよう!
 ぐるぐると考えてはこんがらがる頭の中身を露呈するようにきっと今のわたしの顔はすごく間抜けだったのだろう。小さく笑う声がして、彼はわたしの耳元に唇を寄せ、先ほどと同じ音量くらいの声で、呟いた。

「私の我儘、聞いてくれますよねぇ?」

 それを意味することは、この状況で一つしかない。じんわりと嫌な汗を背中に掻きつつも、わたしはそっと、今日何度目か分からない深い息を吐いた。それを肯定と捉えるのはきっとこの世界中を探しても彼だけだろう。それじゃあ遠慮なく。そんな言葉にまだ何も言ってない!と言い返そうとしたわたしの口は呆気なく彼に奪われてしまった。

「ジェ、イド、ん、」
「言ったでしょう?私は」

 釘付けになってしまう。彼の熱い視線と、違和感を感じるくらい緩やかな笑み。抵抗する気力も意欲も全てを打ち消していくそれを見つめながら、わたしは無意識のうちに笑っていた。彼の誕生日を誰よりもいち早く祝えたこと。今目の前にいる彼の視界にはわたしだけしかいないこと。
 こんな時間が、来年も訪れればいいのに。

「あなたがくれるものなら、なんだって嬉しい、と」



(例えば、それがあなただとしても勿論喜んで、ね)