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「場を弁えてくれませんか」

 コホン、わざとらしい咳遣いを一つ、侮蔑するような視線がこちらを向く。何の話ですか。交わせるとは思えないけれど自ら認めることはしたくなくて白を切る。けれどそれさえも彼の計算のうちに含まれているのではないかと疑いたくなるような笑みがあった。思い返す。何を以って彼はこうも不機嫌さを取り繕うような笑みで言葉を紡いでいるのだろうか、わたしは何かしでかしただろうか。今現在の状況に思い当たることは一つもなかった。あるとすればつい先ほど提出した書類に何らかの不備があったこと。それ以外にはない、と思う。ああ、もしくは頼まれてわたしが淹れたコーヒーの味が気に召さなかったとか、そんなことだろう。けれど彼に至ってはそんな些細なことでここまで分かり易い不機嫌さを出すはずがない。それは長年彼の部下として、働いてきた経験から言えることだった。自分用に淹れたコーヒーの入っているカップに静かに口をつけて、わたしは彼の言葉を待つことにした。結局のところ思い当たる節は、存在しないのだから。

「あなた、私がいることに気付いていたでしょう」
「もう一度言いましょうか。何のはな」
「いえ、白を切られるのはもう結構です。昨日の話ですよ」
「昨日?何でしょう」
「第四師団の、最近あなたに親しくしていた……」
「ああ。あれ、ですか」

 あれ、と固有名詞を出さないことは彼にとっての一応救済措置、のようなものだった。いつだったか、仕事中にその第四師団に所属する彼の話をしたとき、あからさまにその後の大佐の様子は可笑しくなっていたから。もうそれはそれは、もし第三者であったら大笑いしたかったくらいだ。残念ながら当事者のため彼の不機嫌さに対して、そんな感情よりも恐怖のほうが突出していたけれど。今となっては良い経験、だったと思う。そんな第四師団の彼に昨日、仕事が一段落付いた定時頃に呼び出されたのだ。そんなシチュエーション、もう子供でもない者からすれば説明などなくても理解できるものだった。勿論わたしも、きっと彼もそう。だからこそ偶然を偽ってすぐ近くでわたしとその彼、とやらを見ていたに違いない。そして彼は今尚現在も、それをご丁寧にも気に留めている。世界に名を轟かす死霊使いが呆れるなあ、とわたしは笑いながら、再び提出する書類に手を伸ばした。師団長である大佐の判がないこと以外に目立った不備はない。一枚一枚捲って確認していくわたしを見下ろすような形で、彼は再び口を開いた。「分かっていましたけどね」いつものような刺々しい言い方ではないことのほうが驚いた。まるで、まるで子供をあやすようなその声色にわたしは持っていた書類を一枚、手を滑らせた挙句床に落としてしまった。

「どうしたんですか、鳩が豆鉄砲喰らってますよ」
「鳩?わたしが?」
「ええ、餌を食べる姿なんてとてもよく似ています」
「食い気が多いって?」
「いやぁ、可愛げのあるところなんかも」
「感情のこもっていない後付けは結構です」
「おや、怒っちゃいました?」
「それは、こっちの台詞」

 ぴくり、彼の表情が少しだけ動揺を形作ろうとしていた。彼はそれを眼鏡に手を添えることで無理矢理修正する。何となく笑えてきた。あのジェイド=カーティスがこんな娘の一言に一喜一憂するなんて、と。拾い上げた書類を持つ彼の手が、明らかに動揺の色を映し出していた。

「わたしはきっぱりと断わった、それは大佐も『偶然』聞いてたのでしょう?それなのに不本意に大佐に怒られるなんて」
「……」
「挙句の果てに告白したのはわたしでもないのに『場を弁えろ』発言。ああ、それじゃあわたしは一体どうしたら良かっ」
「分かりました。分かりましたからもう良いです」

 はあ、と積もりに積もったような溜息が彼から零れた。全くあなたには叶いませんよ。そうですか?何も考えないで直感で応えたわたしの回答とは真逆に、大佐は少し考え込んだ後にええ、と言葉を返してきた。その顔には呆れの感情が多く含んでいる。そして何食わぬ顔でわたしが飲んでいたコーヒーカップを持ち上げると、その残りに彼は口を付けた。

「……大佐、それこそ『場を弁えろ』じゃないんですか?」
「お返しです」
「何のですか」
「私を不安にさせたこと」
「あら、不安になってくれたんですね」

 内心彼がわたしのルージュが薄っすらと残る場所にわざと口付けたことに動揺はあった。誰が見てるかも分からない軍内部で、こうも大胆なことをされるとは思いもよらず一瞬顔に熱が集まりそうになったけれど、必死にそれを制した。彼にはきっとお見通しなんだろうけど。カタン、と受け皿に乗せられたカップにはほんの少ししかコーヒーは残っておらず、大佐の余裕を取り戻したような笑みを見て、わたしは不平を洩らす。コーヒー。ただ一言だけど多分彼には伝わっただろう。また淹れればいいじゃないですか。そんな返答ももう、予想が付いていた。

「まあ、忘れる程のこと、と受け止めて良いのでしたらそれはそれで安心なんですけどねぇ」
「は?」
「ただ、彼からの言葉にどうもあなたは嬉しそうに頬を緩めていたようにも見えたもので」
「……大佐?」
「少し、焦燥感を持っただけです」
「あの、」
「もしかしたら、……と」

 一方的に話すときの彼は言葉とは裏腹に弱音であるとわたしは知っている。それは長年彼の元で働いた部下だから、ではない。ずっと一緒にいた彼との特別な関係が、わたしに教えてくれていた。彼は肝心なことについてあまり話そうとしない。けれどたまに、本当に稀でだけど、彼はわたしに自分の持つ感情を零すことがある。それを露呈するときはいつも、饒舌だと疑いたくなる程一方的で、早口になるのだ。感情を一気に流して一度流した後は直ぐに何かで蓋をしてもう零れなくさせてしまう。多分この後彼はまた蓋をしてしまうのかもしれない。そんな状況を想像して少し、胸が痛んだ。けれど少しでもわたしはあなたにとって、支えになっているなら。自分の本音を言ってくれる、対象になっているのなら。そんな自惚れがとても幸せだった。いつか。いつか、蓋をしなくて済むような相手になりたい。それがわたしのこれからの目標だ。

「大佐」
「……何です」
「少し、可笑しいなと思っただけです」
「可笑しい?」
「マルクト軍第四師団師団長補佐の彼」
「……」
「ジェームズって言うんです。大佐少し名前が似てるなって思ったら何だか笑えて来てしまって」
「……あなたは」
「告白の言葉なんて正直、あまり聞いてなくて」

 「わたしの中には大佐しかいませんから」十枚で束にしてまとめた書類を約十ほど、わたしは目の前に立っていた上司に差し出した。暫し目を見開いた状態でわたしの目を見る彼の赤い瞳は相変わらず人の綺麗、という感情を惹きつけてやまない。そこにどんなに悲しい過去があったって、わたしは迷わず彼を、彼の瞳を綺麗だって言うことが出来る。堂々と胸を張って、彼を好きだって言うことが出来る。

「書類のチェックをお願いします。大佐」
「……分かりました。その代わり」
「はい?」
「男泣かせなあなたにはコーヒーを淹れて貰おうと思います」
 にこりと、しかも嫌味の籠もったような笑みでそう言い放たれて一瞬、放心しそうになった意識をなんとか取り戻す。空同然だったわたしのコーヒーカップを彼は持ち上げて、椅子に座るわたしを見下ろした。不安だったとか、弱音だとか、そういうことをさっきまで露呈していた人と同一人物だとは到底思えないような軽々しい口調で彼は男泣かせ、と再びその部分を強調するように言葉に表した。どうにも否定するのも面倒だったので、わたしは渋々立ちあがる。立ち上がっても尚、彼との身長差は少ししか埋まらない。見上げたその顔を見て、今度はわたしが溜息を零した。

「わたしのコーヒーは高く付きますよ」

 精一杯の反逆心だった。