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「また、泣いているのですか」

 否定の形をした言葉が返ってくることをわたしは知っていた。いつものように素直じゃないですね、と笑う準備は出来ていたのに今日に限ってそれがない。どうしたものかと彼の姿をただ見つめていた。背中からでも分かるくらいの、哀愁。この人から哀の感情が無くなる時なんて訪れないのかもしれないといった変な想像に駆られ、少しだけ恐怖した。やはりわたしはただの、無力な、部下だと。思い知らされることには、慣れていたけれど彼が笑わなくなる日が来るかもしれないと言う不安にはまだ、慣れていなかった。

「リオン様、お体に障ります」
「風邪など引かない」
「……それでも、今日は特に冷えます。どうか、屋敷に戻っていただけませんか」
「断る」
「……」

 きっと次に言われることは、と想像も付く。ほっといてくれ。それこそ、素直じゃない。けれどその言葉にわたしが笑って言い返すことは出来なかった。ほっといてくれという彼の言葉は本心から来るものであるかもしれないから。彼が待ち望んでいる相手がわたしではないなんて、今更だ。だからといって、ほっとけるわけがなかった。どんなに拒絶されても鬱陶しく思われても構わない。ほっとけないんだ。素直に、言える立場ではないけど、ただ、傍に居たい。あなたの、傍にどうか。

「……誰にも言うなよ」

 相手はこちら側に顔を向けることもなくセインガルドの町並みを見渡しながら、わたしの方を振り返ることもせず早口に切り出した。予想は大抵付いていた。彼が決まってこの場所に来るのは暗殺を任務として全うした日。それこそ他の兵士からしてみれば大掛かりな仕事を任せられるリオン様は羨望の対象となることもある。けれど大半が所謂、嫌な仕事だ。それをこなすことに、人間の神経が耐性を保てる程強くはないことくらい一端の剣士であるわたしは知っていた。だから彼はここで泣く。いつも彼は否定する。けれど、その時は決まって雨が降るんだ。

「後ろは、振り返る主義なのですか」
「黙れ」
「お言葉ですが、黙れません」
「……お前は、我侭だ」
「なんとでも。わたしは、あなたの部下ですから」

 傍に居るのは当然です。優しいあなたを、誰が守ると言うのですか。シャルティエが居るにしても、それを振るうあなたがそんな状態では、戦いにもなりません。背中は守りますから、だから。
 捲くし立てた言葉はだから、という接続詞のまま、途切れ、消えた。彼はいつの間にかこちら側を見て少し驚いたような表情を見せた。何事かシャルティエが話してはいるものの、わたしにはソーディアンの素質がないため、会話は聞こえない。ただリオン様が、一言うるさいと呟いたのはわたしに向かっての言葉じゃないと理解できた。

「リオン様、剣を握る掌は凍えていませんか」
「なっていない。が、残ってる」
「のこっている」
「まだ、感触がな。剣は残酷だ」
「それは、」
「人の死んだ感触が直に伝わる。……シャルはもっと、辛いんだな」

 何も、言えなかった。しとしとと、肩を濡らす雨が疎ましい。シャルティエという人物について、わたしは何も知らないのだから余計な詮索を口にしたくはない。人を殺したことに、慰めは必要ない。言葉ならいくらでも嘘をつくことが出来る。ただ、それが彼にとっては何よりの苦痛だと何となく感じた。彼は、どれだけの悲しみを、背負って、強がって、生きてきたのだろう。瞼が熱くなったことを、雨のせいにする。彼と同じ行動をとったわたしに気付いたのか、彼は更に驚きを顕した。

「お前は変な女だ」
「よく、言われます」
「何で泣くんだ」
「リオン様が泣くからです」
「泣いてない。少し、本当に少しだけ、弱気になった。それだけだ」
「じゃあ」

 あなたが、泣かないからです。そう言葉を落としたわたしを、彼が珍しく笑う。少しだけ安堵した。まだこの方に笑みが残っていた。まだ消えてはいなかった。出来れば、もっと見ていたい。だから、泣かないでほしい。空もそう思うのですか。だから、雨が、代わりに泣いているのですか。

「人を殺すことに慣れないでください」

 泣いても構わないですから。背中は守りますから。ここで弱気になったことを誰にも言いませんから。どうか、その気持ちを忘れないでください。涙は、雨と一緒に地面に零れていく。いつしか空は夜を迎え、吐く息も白みを帯びて、体が無意識に震えても、わたしは彼の傍を離れはしなかった。気遣ったようにわたしを見る彼の瞳はやっぱり優しい。優しすぎる彼を、見失いたくない。涙を、無理やり拭き取った。

「お前が居る限り、それは無理そうだ」
「……なら、ずっとお傍に居ます」
「勘弁してくれないか」
「嫌って言っても傍に居ますから」
「お前みたいな変な女に会ったのは、初めてだ」

 妙にほめられたような気がしてわたしは、笑った。シャルティエに向かってもう一度「うるさいぞ、シャル!」と怒鳴った彼の声が幾分が元気を取り戻していたことにわたしはまた、笑う。雨に濡れたセインガルドの景色を一瞥した後どちらからともなくわたし達はそれに背を向けた。あれほど激しかった雨が小降りになったことと、彼の「帰るぞ」という素っ気無さでオブラートした優しさの言葉が掛けられたのは、ほぼ同時と言っても良い。





川蝉が泣く
涙から逃げるあなたの代わりに、わたしと空が、泣きましょう