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 あれ、と目を細めた。
 部活を終えて駐輪場からエンジ色の自転車を押し引いていた私は、訝しげに眉を寄せる。そして校門のところにいる人物の姿を確認した後、いつもより大きめの声で相手の名前を読んだ。

「矢島くん?」

 声を掛けた相手がふとこちらに反応を向ける。あぁ、苗字さん。そこにはいつも通りの彼がいた。けれどどこか様子がおかしい。決定的な確証はないけれど、そう思った私は彼にすぐ疑問を投げかけた。どうかしたの? とても大ざっぱな言い方で。

「……迎えが来なくてね」
「迎え? あ―、いつも車だっけ?」
「ああ」

 言いながら、自転車のスタンドを立てる。私の様子を見た矢島くんが少しだけ不思議そうな顔を浮かべた。行動の意図が読めないからだろうな、そんなことを思いながらも私は自転車に寄りかかる。いよいよ分からないと言った風に矢島くんが口を開いた。

「苗字さん?」
「や、矢島くん家の車でも時間に遅れるなんてことあるんだ」
「……渋滞で足止めされてるみたいで」
「へぇ」

 矢島くんの疑問を含んだ声に答えるつもりはなかった。私は自分の起こした行動の真意は明かさない。明かしてはいけない。もしそれを話してしまったら、私と矢島くんとの間に距離が出来てしまうかもしれない。そんな可能性があったから。
 あとどれくらいで来んの?そう尋ねると少しうんざりしたような声で矢島くんが、しばらくは無理かもね、なんて他人事みたいな言い方で答えた。

「……」

 なんとなく、下唇を軽く噛んでみる。強くも弱くもない、力。考えごとをするときの癖だと、以前仲の良い友達に指摘されたことがあるその仕草に気付くことなく矢島くんはオレンジ色の空を見上げるとぽつり呟いた。

「日が暮れる」
「え? あ、そうだね」
「夜道での女の一人歩きは危ないから」
「あ、うん。帰るよ」

 話の流れから私は思わずそう口走ってしまった。もしかしたら邪魔なのかな、スタンドのロックを解除しながら、矢島くんの顔を盗み見る。なんとも思ってない。まるでそう言いたげな表情だった。

「……」

 静かにサドルに座る。両足の着いていた地面を蹴ろうか迷いながらもう一度矢島くんの姿を見た。

「何か?」
「……あの」

 鞄から英単語の小さなテキストを取り出していた矢島くんが顔を上げる。視線のあった瞳の奥に私がいるのかと思うと知らず知らずの内に嬉しさが込み上げて来た。

「私の後ろなら……空いてますけど」
「……」

 テキストのページを掴んでいた彼の指が止まる。顔は珍しく驚きを彩っていた。心の声が聞かなくても伝わってきそうだ。何言ってんの? きっと、そんな感じ。

「つまり?」
「え、つまり?! え―と、その。チャリの後ろで良かったら乗せますよ、お兄さん」
「この場合、立場が逆なんじゃないかな」
「あ、でもホラ! 私も部活で鍛えてるしいけるかなって」
「……」

 自分でも一体何が言おうとしているのか分からない。勝手に口から飛び出る言葉に一番驚いているのは自分自身だと言っても過言でないくらいだ。恥ずかしさから反射的に彼に背を向ける。でも、どうせ、断られるだろうな。そんなことを想定しながら溜息を付きかけたまさにその瞬間だった。

「……ではお言葉に甘えて」

 自転車の鳴く音が聞こえた。え、と自分にしか聞こえないような小さな声で答えると背後に感じた気配。そっと目線を後ろに向ける。そこには自転車の荷台に腰を下ろした矢島くんの姿があった。今まで体験したことないくらいの近距離。心臓がぎゅうっと痛くなった。

「苗字さん?」
「えっ、あっ、ご、ご乗車ありがとうございます!」
「金取る気?」
「まさか! えーと、じゃあ」
「……」
「その、出発します」
「……よろしくお願いします」

 矢島くんの言葉をきっかけに私はペダルに足を付けた。ギアを入れず、怯えたようにそっと動き出す自分の自転車。けれど、すぐに自転車は止まってしまった。わざとらしいような矢島くんの笑いが、耳に入り込む。

「……矢島くん」
「……」
「ごめん」
「ああ」
「その、……無理かもしんない」
「うん。そうかなって思った」

 ふらふらしてたし。付け足すように言い放った矢島くんの言葉に運動部としてのプライドが壊されかけた。ふ、ふらふら……。予想外なほど自分に力がないことに落ち込み、小さく溜息を付いた。矢島くんが荷台から降りる。何となく私もサドルから降りて、何歩分か後ろに退いた。すると、まるで最初からそうするみたいに矢島くんがハンドルに手を掛ける。私が荷台に乗ったのも束の間、私とは対照的に矢島くんの漕ぐ自転車がスムーズに走り出した。
さすがは男の子、というか何というか。

「矢島くん、さ。軽そうだし一人くらいならいけるかと思ったんだけど」
「自転車に人を乗せるのにひとりもふたりもないと思うけど」
「ですよねー……」

 手のやり場に困りながらも苦笑いを返す。結局前を見続ける矢島くんの黒い学ランの裾を小さく握った。そのせいか、少しの揺れでもバランスを崩してしまう。自分の中の平衡感覚をフル活動させてながらも、前を見た。私一人分の重みなんか感じさせない動き。その運動神経を得るためにどのくらいの努力をしてきたんだろう。いやもしかしたら生まれ以っての才能なのかもしれないけど、でも、と私は以前体育館で見た矢島くんの姿を思い浮かべた。ほんの少し前まで活動すらしていなかったバスケ部。その中で汗を拭いながらも走り続ける彼の姿を思い浮べていくと、胸を締め付けられるような感覚が私を襲った。ぼーっと彼の背中を見つめる。

「あ、ごめん」
「え?」

 唐突に言われた謝罪の言葉。その真意を尋ねようとした瞬間、自転車が段差か何かに当たったらしくその車体が大きく揺れた。わ、と小さく悲鳴を上げる私に矢島くんが再びごめんと呟いた。衝撃で少しだけ痛くなったお尻をさすりながら、私は大丈夫と返す。その声はお世辞にも大丈夫と言えるようなものではなかった。けれど矢島くんはそれ以上何も言うことはなく、再び自転車を走らせる。反射的に離してしまった彼の制服に手を伸ばした時だった。

「それじゃ危ないよ」
「へ」
「遠慮せず手、回していいから」
「……」
「苗字さん」
「あ、えーと、じゃあお言葉に甘えて」

 先程の矢島くんと同じ言い方をすると、心なしか前を向いている彼が笑ったような気がした。ここからははっきりと見えないから、あくまで予想だけど。彼を取り巻く雰囲気が変わったからかな、と思いながら恐る恐る彼の腰に腕を回す。いつも細いななんて思っていた彼の体は思っていた以上に男らしさを持ち合わせていて、思わぬギャップに少し戸惑いを覚えながらも彼の体の前で手を組んだ。矢島くん
は無言のまま。時々揺れる自転車の振動に身を任せながら私はなんとなく口を開いた。瞳にはもうすぐ暮れるであろう夕日のオレンジ色と彼の制服の黒色だけが映し出されている。

「……矢島くんって真髄なお坊ちゃんかと思ってた」
「どういうこと?」
「勉強出来るけど運動出来ないみたいな」
「それ、偏見だよ」
「けど、違うね」
「金持ちの全員が運動出来ない訳じゃない」
「……あ、金持ちは否定しないんだ。や、別にいいけど、うん」

 的を射た彼の発言に、私は苦笑しながらそう返す。カラカラと一定のリズムを保った自転車の音が、私達の間に絶えず流れていた。……もう少し、近付いてもいいかな。何となく、彼の腰あたりに回していた腕の力をちょっとだけ強くして、彼の背中にそっと額を当てる。自転車の振動が直接伝わってくると同時に、矢島くんの鼓動が微かに聞こえた。
どくん、と呼応するみたいに私の心臓が鳴る。
 彼の鼓動が、近い。
 そんなことを考えているとすごく優しい気持ちになれた。静かに、目を閉じながらその音に耳を傾ける。

「……けど、」
「え?」
「自転車、あんまり乗らなそう、矢島くん」
「基本的に車だから。確かに久しぶりかもしれないね」
「すごいなあ」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
「……」
「ありがとう、矢島くん」

 自分でも驚くほど、その声は優しさに満ち溢れていたと思った。腕や体全体に当たる矢島くんの体温。彼にとっては不快だったかもしれないけど、矢島くん家の車が遅れてくれてよかったかも。なんて、至極自分勝手なことを考えながら私は彼の背中に当てていた額を少しだけ離して、自転車を漕ぐ彼の姿を見上げた。
 夕日に映える黒髪。いつも眩しいと思っていたそれが私に限りない安心感を与えていた。


走る、染み渡る
「お礼を言うのはこっちだけど」