×小説 | ナノ







 私が振り払った手を、彼はただただ見つめ立ち尽くしていた。誰にだってそうでしょう。そう言いたいのに、心のどこかに残る彼への思いが拒む。

「どうして?」
「だって、その手、嫌」
「……」
「見たの。昼間、私じゃない人の髪を触ってた」
「……」
「否定しないの? 佐伯」

 断ち切れずに、いるんだ。辛くなるのは、目に見えて分かるはずなのに。

「ごめんね」
「……っ」

 薄暗い体育館の中で人間の手を離れたバスケットボールが一人歩きをしていた。どんどんと小さくなるその音を背景に私は、手にしていたスコアを佐伯に投げつけた。

「痛い?」
「……」
「ねえ、佐伯。痛い?」

 バサッと体育館の床に叩きつけられたスコアブックは、くたりと気絶したようにその場に横たわる。先ほどから一方的に痛みを伴なわされている佐伯は、私に非難の目も向けることなく立ち尽くしていた。いっそのこと、もう嫌いだって、好きじゃないって言ってくれたら楽なのに。

「痛くないよ」

 彼は優しくて、優し過ぎて。

「……最悪」

 それが私を傷付けているってことに、気付かない。それとも、気付いている上で私に対してそういった態度を取るのだろうか。
 幾ばくかの沈黙の後、佐伯はゆっくりと足元に横たわるスコアブックを拾い上げた。本の隙間からはみ出たばらの資料を綺麗に整える彼の指先を凝視する。あと少し時間も過ぎれば見回りの先生が、ここを訪れるだろうと予測出来た。

「……投げて、ごめん」
「え? いや、俺は気にしてないよ」
「ごめん」
「名前?」

 カッとなった自分の気持ちがようやく落ち着きを取り戻し始めた。ずっとここにいる訳にも行かない。彼にだって着替えや荷物の整理があるだろうし、私にも残されたマネージャーの片付けがある。きっと収束することのないこの場。諦めたように私は小さく呟いた。もう、止めるね。この議論は、という目的語を加えなかったことに私はすぐに後悔した。
 まるで、引き留めて欲しいみたいな言い方。

「止めるねって何を?」
「……」
「名前。ちゃんと言って」
「佐伯」
「じゃないと俺、変に勘違いするかも」

 瞳が微かに潤ってきた。弱さを表すそれが流れないように、尚且つ佐伯にそれを悟られぬように私はそれとなく目元に手を当てる。

「いつも、こうだから」
「うん?」
「佐伯、いつも私のこと分かってるくせに分からない振りしてる」
「……そんなことないよ。俺はもっと、名前のこと知りたい、かな」

 こんな時に掛ける、彼の優しさが嫌いだ。誰にだってそうなんでしょう。否定的な言葉で、彼を拒絶することだって出来たはずなのに。

「仕事、残ってるんだろ?」
「ん……」
「着替え終わったら、手伝うから」
「手伝うから何?」
「え?」
「また、機嫌治せって言うの?」
「……違うよ」
「じゃあ」
「手伝うから、一緒に帰ろう」
「……っ」

 結局私はこのぬるま湯に浸かっているような感覚に流されてしまう。そんな自分が、何よりも嫌いだった。

「本当は私、佐伯の彼女だってことに自信持ってるはずなんだ」

 束縛してしまう自分も、

「けどあんな風に佐伯が他の人に触れてるの見ると、わからなくなる」

 些細なことに不安を感じてしまう自分も、

「ねえ、佐伯。佐伯は私を理解してくれてるのに私は、佐伯が分からないよ」
「……」
「ごめん。こんなの、違う。こんなことが言いたかったんじゃ」
「好きだよ」

 そんな私をそれでも好きだと言ってくれる彼、も。
 バサリと再び床にスコアブックが落ちた音と同時に腕を取られ、引っ張られた先には佐伯の体があった。強く、強引に抱き締められた体が微かに悲鳴を上げている。締め付ける強い苦しさが、私にとって何よりの嬉しさだということを、彼は知っているんだ。

「やっぱり佐伯ばっか」
「……ん?」
「佐伯ばっかり私の気持ち知ってて、……私ばっかり、分かんない」
「どうしたら、伝わる?」

 肩に埋められた彼の唇が私の皮膚に直接問い掛けるように動く。その小さな動きにくすぐったさを感じながら、私は返事をする。

「佐伯が悪い」
「えー?」
「何でそう、手が早いの」
「じゃあ、手が遅くなれば良い? そしたらバスケも下手になっちゃうけどね」
「……バカじゃないの」
「ごめんね」
「……」
「嫌だったんだね。ごめんね。名前」

 子供をあやすように背中が二、三度叩かれる。その優しい手つきに思わず泣きそうになったけれど、我慢した。誰のせいだ。私が手を振り払ったのも、スコアブックを投げたのも全部全部、佐伯が原因なのに。

「傷付けて、ごめんね」

 その根源に諫められるなんて、どことなく悔しさが募ってしまう。

「うるさい。もう佐伯なんか」
「……」
「佐伯なんか、」
「……名前?」

 体を離されて、覗き込まれ合わさる佐伯の瞳。切なげに細められたそれに、合わせる顔がないとは分かっているのに。

「どうして」

 嫌われることを怖がる私を、どうして好きだと言ってくれるの?

「どうして、こんなにもすごい、好きなんだろ」
「……」

 穏やかな表情に変わった佐伯が不意に顔を近付けてくる。何度だって見てきた。佐伯が私以外の子に優しくしている場面に蓋をして、私は受け入れてしまう。盲目的な佐伯の感情。それでも。

「好き、佐伯。……好き」

 それでも彼が私を見てくれている限り、この生ぬるい関係は続いていくのだろう。







曖昧
あなたが分からない。それなのに、好きの感情ばかり募っていく。