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 感じないよ。

 消えるように呟いた後で伸ばした腕はただ空気に触れるだけだった。酔い過ぎてしまった様だ。滑稽な自分の姿に苦笑して、手を引く。グラスに注がれたマレーネ・ディートリッヒ。その深みのあるブルーに目を奪われる。少しでも気が紛れるなら、と微かに熱の帯びた頬に手を添えてみたけれど逆効果だった。自分の手のひらではない、暖かさを欲しがってしまった。
 きっと今頃司令部で書類の山に埋もれているであろう、自分の上司兼、思いを寄せる相手。その姿を掻き消すように、グラスに手を掛けた。ブルーキュラソーもパルフェ・タムールの香りをも掻き消してしまう、ウォッカの強い香り。くらりと頭が回りそうになりながらも、それをそっと口付けた。
 後のことなんて考えたくもない。どうせ帰った家には静寂が待ち受けているだけなんだから。慣れているはずなのに、こうも感傷的になってしまうのはきっとアルコールのせいだと自分に言い聞かせ、一気にカクテルを飲み干そうとした時だった。
 そっと、それを遮る手。待ちわびていたように、感情的になっていた私の瞳が揺れた。

「……大佐」
「一人かね」
「え、あ、はい」

 薄暗い照明のバーの中で、一際映える青色の軍服。それを隠すように羽織った黒いコート。私の手を遮る白い手袋。そのどれもが私の目に眩しさを与えてくる。
 私の返事に目を細め、吟味するように何事か思案する彼の顔をただ私は見つめることしか出来ずにいた。どうしてここにいるのですか。真っ当な質問など、喉を通らない。

「ふむ」
「……」
「マレーネ・ディートリッヒか。確かに君には似合うが、危ないな」
「何が、ですか」
「君は酔うと手が付けられなくなる。自覚は?」
「ないです」
「だろうな。手強いぞ、酔い潰れた君は」
「……」
「以前ヒューズと三人でここへ飲みに来たという記憶は?」
「……あるような、ないような」
「それが証拠だ」

 からかうような笑み。一瞬にして分散していた熱が顔に集まるのを感じた。
すぐ目の前で店内の照明に溶け込む色の服を纏ったバーテンダーが慣れた手つきでシェイカーを振る。その音で、ハッと我に戻る感覚を取り戻した。

「大佐。仕事、は。……仕事は、どう、したんですか」

 ただの業務連絡であるというのに、うまく口が回らなくて結局間抜けな声で尋ねてしまった。それに対して彼はただ苦笑をこぼしただけ。そうして、目の前の男性に一声掛ける。ラスティ・ネイル、と。

「……人のこと言えないじゃないですか」
「私は君とは違うのだよ」
「……男尊女卑なんて、古めかしい」
「結構。伝統は大事にするものだ」
「嘘付きは嫌われますよ」

 結局私のグラスの中身は彼によって消費されてしまっていた。いつの間に飲んだのか、それすら思い出せなくなっている。結構、酔っているんだと第三者のような感覚で自分を省みていた。ロックグラスに注がれた古めかしいの意味を持つカクテルに彼の目の前に置かれる。

「仕事なら片付けた」
「あと二日は帰れないって、そう仰ったのはどこの誰ですか」
「紛れもなく、私だな」
「やっぱり嘘付きですね」

 カラン、と氷の鳴る音に引き付けられるように隣の席に腰を下ろした彼の横顔を見る。その顔はどこか疲れを彷彿とさせる。少なくとも優れたものとは言えなかった。
 ……もしかして、私のために。自意識過剰と言われかねない、だから敢えて言葉にはしなかった。けれど、一度そう考えてしまうと、無意識に顔が笑ってしまう。思考能力の低下した今、それを抑える気持ちは、そう強くはない。
 そして、目ざとく発見される。何を笑っているのかね。その口振りはどこか不機嫌さを連なっていた。雨の日の顔に、似ている。

「今日は晴れてます」
「そうだな。先程通ってきた道からは星がよく見えた」
「へえ」

 相槌を打ちながら、バーテンダーを呼ぶ。何を注文しようかと思案していた矢先、大佐の声が私よりも先に発せられた。

「彼女にはフロリダを」
「かしこまりました」

 呆気に取られる私を他所に大佐は何事もなかったかのように自分のロックグラスに手を付けた。そして、目の前では作業の早いバーテンダーがシェイカーを手にしている。

「オレンジは嫌いかね」
「別に嫌いじゃないですけど、でも」
「先程も言ったはずだが。君は酔うと手が付けられなくなる、と」
「……」
「自覚のない者は責任を知らない。今夜は止めたまえ」

 煽るように一気にラスティ・ネイルを飲み干す彼が、そう言い放ったと同時に私の目の前に鮮やかなオレンジ色のカクテルが置かれた。カクテルと言っても、一切アルコールは入っていない。渋々といった様子で私は、綺麗にカットされたオレンジが飾られているグラスに手を伸ばした。

「大体私がもしここを見つけられなかったらどうするつもりだった」

 攻め立てるような彼の声。酔いは感じられない、けれどどこか珍しく感情的なその言い方に私は押し黙ってしまった。せっかくの酔いも、彼の一言によって静かに収まっていく。

「……さあ」
「女性が一人、ふらつきながら彷徨えるほど、この町は安全じゃない」
「大佐という地位の人がそれを言っても?」
「構わん。事実だろう」
「そういうとこだけ正直ってずるい」

 口いっぱいに広がる柑橘系のさわやかな味わい。グラスの下に隠れるように沈んでいたカットされたオレンジ。それに辿り着いたとき、彼が一つ重々しい溜息を付いたのが分かった。無防備だ、と。自覚を持て、と。
 たくさん、言いたいことがあってでも、それを我慢しての溜息なんだろうな。そう思うとどこか胸が切なく痛む。こういう感情も、暖かい温度も、全部、彼がいるからだ。寂しい、悲しい、恋しい、切ない。

 感じないよ、と。先程まではそんなことを思っていたのに、今では胸いっぱいに広がって収まりきらないほど、たくさんの感情に包まれていた。
 寂しい、悲しい、恋しい、切ない。嬉しい。愛し、い。

「あなたがもし、」
「……」
「あなたがもし来なかったら、ここで夜を明かそうと思ってた」
「何?」
「……誰もいない家に帰るくらいなら、一人、飲み続けていようかと」
「……」
「まあ、結果的に、未遂ですけど」

 飲み干したグラスをそっとテーブルに置く。一つ小さな音を立てたそれを見下ろしながら、私は脱いであったコートに手を掛け、それを肩に羽織った。
 それを合図に大佐もまた、椅子を立ち上がり、エスコートするように私の腰に手を回す。少し足元がふらついたけれど、大きな支障を来すほどではない。さり気なく会計を済ませ終えた大佐が耳元で小さく、名前と、私を呼んだ。

「あ、すみません。後で、払いますね」
「そうじゃない」
「何でしょう」
「すまないな」
「ですから、何でしょう」
「奢ったくらいでは秤も均等になっていないだろう」
「大佐、?」

 バーの扉を後ろ手で閉めた彼が私を引導するように歩き出す。ひんやりとした空気が、私の熱を取り払ってくれる。そう思った瞬間だった。

「君に与えた寂しさの代償は今夜、払うつもりだ」



憂う夜
風や空気の冷たさを異とも思わない熱。
それを完全に取り払うのと、今宵の酔いを醒ますのはどうにも、難解そうだ。