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「あれほど無理はするなと言ったはずだが」

 厳しい瞳が私を見下ろした。束ねられた書類を一枚一枚捲りながら、傍に置いてある電卓を指で弾く。頭の中で冷静に計算を施す一方で、彼の激昂した瞳の色に動揺を抱く心があったことも自覚していた。その証拠にいつもなら難なく済ませることが出来るデータの入力、計算を何度もミスをしては繰り返している。ああ、まただ。苛々する心を抑えつけながら私はリセットのボタンを押す。ゼロに戻った液晶を確認した後で、一息をついた私はまずはこの状況を打破しなければ何も出来ないと悟った。デスクに向けていた目を、ゆっくりと上へ移動させ彼を見上げる。やはり想像した通りの表情を彼は浮かべていた。思わず笑みが零れそうになる。どうしてそこまで、心配と怒りと、呆れの入り混じった顔をしているのですか。私は静かに口を開いた。

「ガミガミ言わないでくださいよ。中尉にも同じことされました」
「助からなかったかもしれない」

 残業になっていた書類の処理を、今日中に終わらせることは無理かもしれない。何となくそう思った。不意に壁に掛かる時計に目をやれば、定時などあっという間に過ぎた短針が一つ左に動いたところだった。差し示す十と十一の間。欠伸も零れるはずだ。時々痛む肩を彼に気付かれないように庇いながら私は席を立った。公務を行なうこの室内に隣接されている仮眠室。そのドアのすぐ傍にあるソファに乱暴に体を預けた私は、そっと左腕で顔を覆った。そしてその隙間から、未だにこちらに視線を向けている彼の顔を盗み見る。全く、上司であろう人が、一部下に見せる表情とは思えない。自嘲するように私は真っ当だと取れる意見を口にした。

「いつだってそうですよ。私達は死と隣り合わせ」

 ソファの前のテーブルに放置したままのコーヒーカップを手に取る。そのまま体重を再びソファへ預けた私はすっかり冷め切ったコーヒーの渋い味に顔を歪めながら彼の返答を待った。そして聞こえたのは、凡そ軍人とは思えないような、言葉。

「せめて足掻こうとは思わないのかね」

 イシュヴァールで人を大量に殺めた経験を持つ男の言葉か。カップをテーブルにそっと置く。静かに置いたつもりなのに、それは会話の少ないこの室内に嫌に響き渡ってしまった。カツン。思わず失礼しましたと非礼を詫びてしまいそうなくらい違和感のあるその音に一瞬だけ緊張の糸が途切れたのは私だけだろうか。ソファに座る私を見下ろしたまま直立の彼の瞳が訴えていた。今度は私の返答を、彼が待っている。私はその問いに、答えようとは思わなかった。手当てを受け、痛み止めを打ったはずの肩が痛い。そういえば持続時間はとうに切れてしまったのかもしれない。ぼうっとした意識の中で、何度も思い出す惨劇の場。それが今日の夕方、ほんの数時間前に起きた出来事だと思うと自分の時間軸とのブレがあるようで奇妙な違和感を感じた。とても昔に起こった出来事を思い出すように、私の心は穏やかだったから。

「……寝ていいですか」
「体が痛むのか」
「かなり。……冗談ですよ。どちらかと言うと、眠たい、です」
「すまない」

 意識がうっすらとした膜に覆われていくようだった。昼過ぎの東方指令部に舞い込んできたテロの報告、弾圧の依頼、実践、事後処理。膨大な情報と急な展開と、疲労が一気に私に襲い掛かってきている。ほんのかすり傷だと思っていた怪我が実はあと少しで大惨事になっていたかもしれない状態だったと気付かされたのは弾圧し、大佐に肩の負傷を指摘され、医療班の所へ連れて行かれたときだった。今でも鮮明に思い浮かぶ。彼の焦ったような表情なんて年に一度や二度見られるか見られないかくらい貴重なものだと思った。そしてそれを引き起こしたのは、私自身。その事実が私を満足させていた。他の人ではなく私という優越感。それを味わえただけで私はもう、充分だとさえ思ってしまっていた。背もたれに項垂れるような私の姿勢の悪さ。大佐が何も言ってこないことをいいことに、私は更に体重を掛けて、半ば寝転がるような体勢へと変えた。と、同時に溜息が一つ零れる。けれど、無言。珍しいこともあるものだと口笛を吹きたくなった。

「いつもの皮肉はどうしたんですか。あなたがそんな顔するなんて、……調子、狂う」
「憂いたくもなるさ。こうも部下が命知らずばかりだとな」
「なるほど」
「どうしてかな」
「何がです」
「すぐに命を諦める。何故足掻こうとしない」

 瞳が半分ほど閉じかけていた。それほど、眠りへと落ちていってしまいそうだったのに。こちらの世界へと意識を繋ぎとめたのは思いがけない大佐の言葉だった。ああ、そんなこと。簡単なのに。

「要らないから」
「楽か、その方が」
「願望、? ですかね。でも本当に。……いつから足掻いてみることを諦めてしまったんでしょう」

 諦めるというのは正確には間違った遣い方のような気がした。命知らずなのも、足掻こうとしないのも。命を諦めてでも守りたいものがあるからこそ、生まれる感情なのに。野心を持つ彼にはきっと理解出来ないだろう。それでいい、それでこそ私の、守りたい人だ。ずきずきと熱く疼く肩にそっと触れる。もしあの時、テロリストの一人の持ったナイフを私が避けてしまっていたら。万が一にも彼が死ぬということはないだろうけれど可能性はゼロじゃない。そう考えると背筋が凍るような想いが全身を覆った。彼の進む道にある茨は例え小さな棘だとしても削り落とさなければ安寧は得られない。犠牲は、免れない。そして、その犠牲の領域に私が含まれても本望だと思えた。彼のために、生きて死ぬ。想いを告げたとしてもその隣にいることの許された人物は私ではない。それならば、と私は結論を心の中で明確に示した。そして自然と口元が緩みそうになるのを、彼が見落とすわけもなかった。

「嬉しそうだな」
「何ででしょうね。自分でも分かりません。でも、多分」
「……」
「ん、んー……あなたのために、死ねると言うのなら本望。恐らく正解はこれでしょう」
「嬉しいと思うか? それを聞いた私が」
「がっかり、ですか?」
「可能性があるなら、生きて欲しい、……いや」
「……」

 彼の足音が、沈黙の訪れた室内に響き渡る。ゆっくりと近づくその姿に私は、身構える。あまりにも儚くて、いつもと違う彼の姿がそこにはあったからだ。こんな大佐を、私は知らない。私の中の大佐はいつも皮肉屋で、調子者で、何を考えてるか読めない人。そしてその内に秘めた強い光に私は憧れ、特別な感情を抱いた。はずだ。それなのに、目の前に迫った彼の表情に私は、体を後退りする。怖くはない。けれどどうしようもない戸惑いが私に襲い掛かっていた。肩の痛みも眠気も、一瞬にして吹き飛んでいく。縋るような表情、何かに固執するなんて、あなたらしくないですよ。そう言おうとした私よりも先に彼が先程の言葉の続きを紡いだ。

「やはり君にはこう告げた方が良さそうだ。……『生きることを諦めるな』」
「……な、に食わぬ顔で酷いこと、言いますね。あなたは、狡い」
「いつもずる賢い君の言う台詞かね」

 どういう意味ですかと、問い質そうとしたところで自分が思った以上に激情していたことに気付く。このままでは彼の思う壺になってしまうだろう。何とか話題を逸らそうと思考を巡らせた後で、格好の言い訳を私は述べる。きっと、無駄だろうけど。

「……眠いです」
「すぐに君はそう言って逃げるだろう? 私からすれば君も充分、狡い」

 ほら。すぐ、見破られる。姿勢の悪い私に目線を合わせるように彼がソファの隣に腰を下ろす。肘掛の部分に腕を置いた後で私の顔を覗き込んだ彼の顔は先程の儚さを薄れさせていた。幻だったのだろうか。悪い夢を見ていたのだろうか。ぐるぐると駆け巡るそんな思考に囚われては掻き消す。思った以上に至近距離にある彼の顔を直視出来ぬまま私は、彼の言葉を反復させていた。どうして、生きることを諦めるなだなんて。死が素晴らしいだなんて思ったことはない。けれど心を傾けた相手のために死ねることは、ある意味結ばれない現実よりも幸せだと思う。と、そこで気付く。彼が私を狡いと言ったのは、逃げると言ったのは、私の中のこういった部分を見透かしてのことなのだろうか。意を決して視線を合わせた。夜の帳に同調するような彼の黒い瞳が、私の姿を映し出していた。今にも吸い込まれそうなその瞳を見つめながら、そっと私は口を開く。

「……一度だけ、聞きます」
「素直に答えるとは限らないな」
「何食わぬ顔で言った先程の台詞は……上官としての命令、ですか」

 それとも、ロイ・マスタングというあなた個人の心からの願いですか。そこまで言わずとも彼には選択肢がわかっていたようだった。愉快そうに口元を吊り上げた大佐がゆっくりと私の頬を撫でる。心臓を跳ね上げるに事足りるほどの彼の手の感触。それを細胞の一つ一つで感じ取るために私はそっと目を閉じた。不思議と痛み止めの切れた患部からの痛みが薄れていく。指先のほんの少しの変化がくすぐったい。どうしてこんな事をするの、と思ったけれどこれは私の問いに対する彼なりの、回答なのかもしれない。やがて彼の声が、静かに空気を震わせた。

「……確率は名前の得意分野だろう? さあ、正解は?」
「……計り知れませ、ん、」

 いくら普段経理や数学をしているからといってこういう駆け引きに強いわけじゃない。珍しく自分でも素直だと賞賛したくなる答えに彼はそっと瞳を細めた。やがて、時が止まる。閉じていた瞳が反射的に開かれた。普通、こういう状況では間逆になるはずなのに。抵抗する気持ちは元より持ち合わせていなかった。顎に添えられた手からきっと私の鼓動は伝わっているだろう。やがて観念したように再び目を閉じた私は今の今まで硬直させていた腕をそっと、彼の背中に回すことにした。そして彼の顔が離れると同時に、また瞳で射抜かれる。まっすぐに私を見る彼の目が、穏やかさを取り戻したように笑った。



「『ん』。残念。ゲームオーバーだ」
 だめ。目の前の大佐の勝ち誇った笑みと先程から唇に残る熱に、思考なんて正常に動きやしない。



かけひき
(会話しりとり言葉あそび)