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 ふざけて笑い飛ばすくらいの余裕があったら良いのに。整理してた書類に置いた手は先程から数分、時を忘れたかのように止まったままだった。少尉の溜息とも取れる深い呼吸。同時に鼻が敏感に反応する、その煙草の煙。鬱陶しいといつもなら片手を挙げて払いのける振りをするのに、それすら私は忘れてしまったようだ。

「アレ、もしかして。バレてない自信とかそういうのあったんスか?」

 一つ上の地位にいるはずの私をからかうような口調。それでも彼が咎めを受けないのはその飄々とした態度に皆が慣れきってしまったせいだろう。私もその一人。ようやく動き出した手が、いつものように彼の吐き出す煙を払う。ふわり、浮かんだ白いそれがやがて空気に同化していくように消えた。十枚で束になっている書類に私のサインを書き連ねていく。単純な作業。同じようなそれをしていた少尉はもうとっくに飽きてしまったのか、先程の私みたいに手をピタリと止めてしまっていた。咎めるように彼を呼ぶ。けれど効果は期待できない。そんなことは今更だ。

「ははーん、悔しいんスね」
「少尉、書類を片付けないと今日も残業よ」
「もう慣れました」
「それ、自信満々に言うことじゃないと思う」

 好奇心に満ちたその目をもっと仕事に向ければ良いのにと何度思ったことか。最後の書類の束にようやくありついた私は手際よく仕事を済ます。その様を感心するように見ていたハボック少尉はああ、と声を上げた。こっちがああ、だよ。またろくでもないことを言うに違いない。この部下は、そういう性格だ。

「定時で上がりたいっスもんね、苗字中尉」
「どういう意味」
「それは、もちろん大佐と一緒に帰り」

 サインを記入し終えた、数百枚はあるかと思う書類を机の上で盛大に音を立てて整えた。少尉の苦笑が途中で聞こえた様な気もするし、他のデスクの人達も何事かとこちらを振り返ってい気もする。手に持ったコーヒーを啜ろうとしていたヒュリー曹長はその音に驚いたのか大きく咳をしていた。内心ごめん、なんて思いつつも私は無言を保つ。さすがにイタズラが過ぎたのかと顔を歪めた少尉が話し出す前に私は椅子から立ち上がった。彼が釣られるようにして、目をこちらに向ける。
 息を吸って、吐いて。私は静かに口を開いた。

「そうね、私は出来るだけ早く帰りたいわ」
「そ、……っスか」
「勿論、大佐がどうとかそういう問題は別だけ、ど」

 別に他意はなかった。けれどその言葉と同時に少尉の背後にあった廊下へ通じる扉が開け放たれた。そして、今まさに話題にしていた人物が入室してきたのを目撃してしまう。まるでドラマのワンシーンみたいだ。言葉の終わりが無意識に消え入ってしまったのを自覚した。興味深いとでも言うような、好奇心の瞳がもう一つ。背後にいる人物に向けた私の視線を辿るように、ハボック少尉も後ろを振り向いた。その後で小さく言葉を零したことはきっと至近距離にいた私にしか聞こえなかったと思う。

「ほう。私がどうしたというのだね。名前中尉」
「……べっつに何でもないです」
「随分と可愛らしくない返事だな」
「そりゃすみません。大佐の行きつけとかいうレストランの可愛いウェイトレスさんみたいな反応、私には無理ですから」
「うわ、刺々しい……」

 全く以ってその通りだと自分自身思うような表現を漏らした少尉に牽制の意味で一瞥を向けた。その後で分厚くて運びたくもなかった数百枚の書類を一度に持った私に近付いてくる自分の上司に差し出した。

「これお願いしますね」
「……多くないか」
「さあ。定時まであと一時間もありますし、大佐でしたらそれまでには終わるでしょう?」
「やれやれ。今日も残業かね」
「そうですか」
「時にハボック」

 私とは違って結構な重さのある書類を片手で軽々と持ち上げた大佐。その様子を見た私は改めてその逞しさに見とれそうになってしまった。慌ててその思考を振り切っている私から、彼の視線は標的が変わる。

「何スか。生憎手伝えませんよ」
「まだ何も言っていないだろう。それにその読みは外れだ。名前中尉と何の話をしていたのだね」
「気になるんスか?」
「そりゃあ、私の名前が出ていたからな」
「……別に大したことじゃありません」
「名前中尉には聞いていないな。で、どうなんだハボック」

 私の意見なんて丸っきり無視だ。やれやれと溜息を付きながらただハボック少尉に余計なことは話すなよと無言の圧力を掛ける以外私は何も出来ずにいる。こうなると手が付けられないのは彼が私の上司で、私が彼の部下だから、でもそれだけじゃない。
 意地悪く笑いながら灰皿に煙草を押し付けた少尉は、静かに口を開く。こういう時に限ってどうしていつも騒がしいこの執務室は急に静かになるんだ。雑談してろよなんて悪態を吐きながら急に熱を帯び始めた顔をバレないように背けた。もうそれしか、出来ない。少尉が話し出すまでの数秒。恐ろしく長く感じた。

「多分、大佐の考えてるようなことっスよ」




的確だから笑えない
(名前中尉って大佐のこと好きっスよね。アレ、もしかして。バレてない自信とかそういうのあったんスか?)