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 軍部内の廊下。時折靴音を慣らして通り過ぎる人達の視線を感じながら私は俯いた。恋人同士でもない二人が数十分の休憩時間に肩を並べ座る。その間には掃除を施されて間もない灰皿と、僅かな距離があった。
 会話は、ない。
 一定の周期で起こる会話はいまさっき終了したところだった。初めは今日の執務状況、沈黙を挟んで次に私の直属であるハボック少尉の恋愛話。そしてまた沈黙を挟み、こないだの休日の話。一定の周期、一定の距離。これが私にとっての限界と言っても良かった。縮めたくない。ここが、心地よかった。それなのに、その間隔を彼がさも自然とでもいうかのように詰めて来たのは、今し方通りかかった男性が大佐に一礼をし、その背中を見せた時だった。
 素知らぬ顔で私の頬に触れる。彼の体温が白い手袋越しに伝わる僅かな距離。まただ、とくらり目眩を起こしそうになった自分の意識を保つことで精一杯だった。また今日も、他の女の香りがする。濃厚な甘いコロンの香りが、慣れていたはずの彼の香りを見事なまでに掻き消してしまっている。歪めた私の表情には気付かない振りを通すつもりか。頬を覆う手を伝って、彼の顔まで視線を移動させていくと不敵な笑みが私を迎えた。

「やけに大人しいな」
「そりゃあ私だって大人ですから」
「20そこそこ、私から見ればまだまだ子供だな」
「あっそ。それがこないだ19の女を口説いていた男の言う言葉ですか」
「……見ていたのかね」
「はい。19はOKで22がダメだなんて随分カエルですね」
「カエル?」
「飛び跳ねてる」

 押し殺したような笑い。無邪気さを残す彼の童顔さにはほとほと参ってしまう。笑い事ではないというのに。どうしてか、私まで笑いそうになる。

「カエルか、そうか」
「雨に強い分、大佐の方が弱いみたいですけど」
「カエルは火に弱い。五分だろう」
「哺乳類と両生類が五分五分ですか」
「いちいち揚げ足を取るな」
「それは」

 あなたが、私を惑わせるから私だって必死なの。思わず出そうになった本音を飲み込む。続きを待ちかねるように彼が軽快な口調で尋ねた。

「それは?」
「……どうしようもない性分でして」

 そうか。その言葉と同時に頬に宛てられていた手が静かに離れる。それこそ五分五分だ。離して欲しいけれど離れたくない。彼が他の女性の香りなど漂わせていなければ私も少しは素直になれたものを。だから私のせいじゃない。自分を正当化させながら、内心晴れることのない感情に鬱憤が溜まる。軍服のポケットから取り出した煙草のケース。その中から一本を手にすると、彼のわざとらしい咳払いが聞こえた。口にくわえようとしたほんの数秒前。タイミングを逃した私は一つ溜息をついて、隣に佇む彼を見た。きっと何も言わなくとも彼には私の言葉が伝わっているだろう。邪魔しないでください、もしくは、何ですか。彼が口を開いた。

「許可は取らないのかね」
「誰にですか」
「この私に、だ」
「ハボック少尉が大佐に喫煙許可を取ってる場面なんて見たことありませんけど」
「カエルの子はカエルか」
「オタマジャクシですよ。それに、私の父はもっとダンディーで格好良いです」

 ハボック少尉みたいな女運ない人なんてダメ。ふざけた口調は少なくともハボック少尉似だとは思いますけど、と思い出したように付け加えた後で、煙草をくわえる。ハボック少尉を通して間接的とは言え、目の前にいる男は仮にも上司だ。いつ叱責を喰らったっておかしくはない私の物言い。それでも構わなかった。ふわりと漂う甘いコロンの香りが私の脳をおかしくしてしまったのかもしれない。こんな人の側になんて、どうして、……でも、側に居たい。
 ポケットを乱暴に弄って、私はライターを探す。いつも持ち歩いている白いライターがどこにもないことに気付いたのはフィルターがじんわりと唾液を吸い始めた頃だった。

「ないのか」
「まぁ」
「付けてやろう」
「……」
「何だその沈黙は」
「……いえ」
「私を誰だと思っている」
「死なない程度に焼いてくださいね」

 先程まで私の頬に触れていた彼の手が、軽快な音を立てる。人間ライターとでも名付けたくなるような彼の指先の焔。赤く燃え上がるそれを暫し見つめた後私は口にくわえていた煙草のフィルターをそっと、近付けた。漂う、特有の香り。少しでも彼を纏うそれが薄くなればいいと言う自分勝手な願いだった。

「随分と独特な香りだな」
「……そうですか」
「ああ。嫌いじゃない」
「私は嫌いですけど」
「それが吸っている張本人の台詞かね」

 愉快そうな声色。フィルターを挟んだ指先を口元から離して、私はゆっくりと煙を吐き出す。道連れに一つ、本音でも落とそうか。

「嫌いなのは」
「ん?」
「今日あなたが抱いた女性の香り、です」
「……ああ」
「どうせ付けるのなら、もっと爽やかな香りにしてください」
「……」
「と、その方にお伝えください。以上、共に仕事をする同僚からの苦情でした」
「同僚としての意見、だけか?」
「はい。他には何も」
「……そうか」

 一つ落とせばすぐに連れ立っていくつもの本音を落としたくなる。そうさせるのは彼の、まるで誘導するみたいな口の上手さのせい。灰を灰皿にそっと、落とす。これ以上は深みに嵌らない。嵌ってはいけないと思いながらも私は彼の座る位置に少しだけ体を傾けた。気付かれそうにもないくらい小さな変化。
 それでもこの男は鋭い。
 何ですかと言いたくなるほどの笑み。小さく笑いを漏らした彼の顔を睨み上げる。顎に手をやっていた彼がおかしそうに私の手元を指差した。その方向に目を向けると今にも燃え尽きてしまいそうな煙草の火が指先にまで及んでいることに気付き、慌ててそれを灰皿に押し付ける。ほんの二、三口程しか嗜んでいないそれに名残惜しさを覚え、また新たに箱から一本、煙草を取りだそうとした。
 その手に彼の一回り大きい手が重なる。やんわりとした阻止。どちらにせよ、彼の行動は私の機嫌を損ねるものに変わりなかった。慣れきったように女性に触れることに躊躇いを持たない。寧ろ自ら進んで接触しようとするその姿勢。それは私だけでなく、彼と関わりのある女性全てが対象だということ。何よりもその事実が一番、私を不快にさせていた。半ば無理やり彼の手を解いた後で、すぐに煙草をくわえる。
 と、火を持っていないことを改めて思い出した。横を見れば、残念だなとでも言いたげな大佐が口元に笑みを浮かべ私を見ている。

「ほんっと、厄日」
「吸い過ぎは体に良くない」
「吸わないと悪くなるんで。私の体は」

 顎を動かして、彼を急かすように見た。口元にある煙草。言わずとも伝わったようだ。大佐は一瞬驚いたような顔をしつた後、一つ溜息をつく。差し出された右手が先程頬に触れられた事実をフラッシュバックさせた。その動揺を悟られぬよう、髪を耳に掛ける。瞳を落とした先で、小さく指の鳴る音がした。

「部下に顎で指示されたのは初めてだよ」
「そうですか。あなたの初めて、もらえて光栄です」
「……焦れったいな」
「はい?」

 先の一本とは違い、味わうかように煙をゆっくり吐き出した私は、突然体を引っ張られるようにバランスを崩した。わ、と小さく悲鳴を上げながら、目の前に迫る彼の軍服に煙草を付けないようにと腕を精一杯伸ばす。煙が目に入り涙が瞳を覆ったのと、彼の大きな腕に抱かれたと自覚したのはほぼ同時だった。鼻がくすぐったい。

「大佐」
「少しずつヒントを散りばめて行く。そして必要以上の感情を見せやしない」
「はあ?」
「いっそ一思いに言ってくれたら、と」
「言うと思いますか、私が」
「もう少し素直になったらどうかね」
「生憎と、それが長所でして」

 そこで、ようやく気付く。女性物のコロンに纏われていた彼の中心は汚されていないということ。どんなに強く、どんなにきつい香りでも、彼の大切な場所までは及んでいない。彼の腕の中はひどく暖かい。目を閉じながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「それに」
「それに?」
「……本音を隠すのは、お互い様でしょう」
「まさか」
「そういう主張はここの香りを維持出来るようになってから言ってください」

 目の前に広がる彼の心臓、の辺りを軽く小突く。女性の香りを纏ったまま私の前に現われるなんて、まさにお前になんて気はない、と言ってるのと同じだ。もしあなたにその気があるんだったら、こんなことしないで。そう言いたくても喉を通る言葉は可愛さの欠片もないものだった。けれど彼にはどうやら伝わったようで。
 大きな掌が私の後頭部をポンポンと何度か軽く叩く。それがあまりにも優しい手つきだったから、ずっとそうされていたら、素直になってしまいそうだと思いながら再び目を伏せた。

「善処しよう」

 再び瞳に水分が覆い始める。立ち上る煙が空調に揺れて、目を刺激していたからだ。理由は、それだけ。距離が縮むことを望んでいるからじゃない。


 泣く理由
 そう言ったところで、彼はまた笑うだろう。「素直じゃない」。