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 捕虫器の薄暗い青に群がる虫が、時折パチパチと音を立てて命を落としていく。閉店間際の本屋を出て、足は迷うことなく前へと進んでいた。すれ違うサラリーマンから仄かに香るアルコールの匂いに眉を寄せる。脇に挟んでいた書店の袋が、落ちていないことを確認しながら足は着実にその場所へと近付いていた。
 アルコール臭い。話し声が、煩わしい。疲れた。明日だって学校なのに。言いたいことは山ほどあったが、それをぶつける相手は今この場所には存在しない。どれもこれも、自分の不機嫌さの根源は奴にある。会ったらどうしてやろうか、そんなことに思考を巡らせていると、やがて足は薄暗い地下道の入り口へと辿り着いた。
 携帯を取り出して、画面を開く。着信もなければ、お詫びのメールひとつないとは。大きく息を吐き、最初からそんなことを期待していなかった自分の諦めの良さに敬意を払いたくなった。指先一つで繋がる電波。行き先は、すぐ近く。

『おう』

 軽々しい口振り。そこに付随するのは、「私がこいつのために働くのは当たり前だ」と言わんばかりの自信だった。

「本、買ったよ」
『そうか。すまんの』「そう思うんなら女一人で夜道を歩かせようなんて最初からしないでくれる」
『なんじゃ、絡まれたりでもしたか。お前さんが』
「何その言い方、かわいくないなあ。ま、確かにそんなことは万が一も起こらないわけだけど」
『ほんで、今どこに?』
「……何かフォローしてよ、虚しいな。いいけど。今はー……仁王がいるところから数百メートル。地下道の入り口」

 電話の向こうで少しだけ驚いたような沈黙が続いた後、仁王は「それなら電話なんぞせんでも」と言った。その言葉を合図に、私は止めていた足を再び動かし始めた。一歩一歩、地下道への入り口へと近付いていく。

「言ったでしょ、私こういう地下道、怖いから嫌いなの。入りたくないの。どこぞの仁王雅治とは違って」

 夜も更けたこの時間帯の地下道が人間に与える恐怖感を、以前から仁王は全くもって理解しようとしてくれていなかった。過ごしやすいだのなんだの言って、待ち合わせ場所としてここを指定する。それはぶっちゃけ言ってしまえば、嫌がらせなんじゃないかとさえ思えるほどだった。
 街路灯に守られていた一般道路から境界線を越えて、地下へと降りていく。無理に明るさを演出したような照明は階段の一番下までしか続いていないことを、私は知っていた。
 つまり、通路は薄暗いのだ。道路を越えたあちら側の地上へ続く階段まで、その暗さが回復することはない。もしくは引き返すか、だ。もちろん、それを仁王が許すわけもなく。
 一つ一つ階段を下りていく。普通の階段よりも幾分か幅広いその造りが、まるで甘い飴のようだと思った。なだらかな階段を越えたら待ち構えているのは、さしずめ鞭。地獄とかの入り口ってこうなのだろうか。人を油断させておいて、いざとなったら平気で酷いことが出来る。
 あ、と私は小さく声を上げた。電話の向こうで仁王がなんじゃ、と訝しげに言葉を返してきた。

「なんか、それって仁王みたい」
『いきなりなんじゃ。それって』
「そっかー。そっかそっか。だから仁王は安心するのね。同属ってやつか」
『ん?』
「そんでもって私は苦手」
『話が見えん』
「こっちの話」
『なら脳内だけに留めておきんしゃい』
「やだよ。何でそこまで仁王に遠慮しなきゃいけないの」

 こっちはパシリの一つを、完璧な形で今まさに遂行してきたのだ。それくらいの褒賞貰ったっていいじゃないか。理解出来んと言った仁王の反応が、私の褒美だ。名前をつけるなら、『優越感』。詐欺師相手にこれ以上の醍醐味など存在しないだろう。まあ、私はテニスしないけど。興味ないし。

「そんなわけでただいま戻りました依頼主さん」
『おう。わざわざすまんかったの」

 語尾の方は、電話口と実際の声と重なって私の耳に入ってきた。まるで仁王が二人いるような錯覚を覚えて、私の機嫌の欠片は一つ、削れた。よくテニスでペテンだか詐欺だか何だかで分身だとか変装だとか色々してるらしいけど、まあ、それとは違う現象。響く地下道の中ではごく当たり前のことだ。だけど、あんな奴は一人で充分だ。二人もいたらなんて仮定の話でも考えたくなかった。

「いやー心にもないことを」
「人に使いさせといて、後ろめたくならん人間なんておらんじゃろ」
「うっそ、仁王って人間だったっけ」
「……さすがに傷付くぜよ」
「はいはいペテンペテン。これ、頼まれてた奴」

 何か言いたげな仁王の顔を見ないように、私は彼の手へと書店の袋を押し付けた。仁王は暫し煮え切らない目をしていたが、やがて「すまんの」と、諦めたように息をついた。そして、書店の袋から目的のものを取り出す。

「おお、これじゃ」
「これ買う時、めっちゃ書店の店員に可哀想な目で見られたんだけど」
「ほう?」
「『なぜ人は詐欺師にダマされるのか』。『ああこのひと被害者なのか可哀想だなあ。残念な奴だなあ』みたいなオーラばっしばし」
「そいつは接客が不十分じゃの」
「そうだねーついでに言うと仁王の気遣いも不十分」
「プリッ」

 追求から逃げるな、と言いたげに仁王を睨む。そんな私に対し彼はさも我関せずといった様相でこちらからさっさと視線を逸らし、手にしていた本を捲り始めた。なぜ人は詐欺師にダマされるのか。もう一度、その題名を口にする。はっきりと、その輪郭を捉えるような私の声色に仁王はどこか満足げな笑みを浮かべていた。大きく息を吐き、私は私で書店で購入した本を鞄から取り出した。と、仁王の目が興味の色に変わる。
 
「ネジ図鑑? 何じゃそっちも面白そうな本じゃな」
「え、やだ。貸さないよ。せめて私が苦労して手に入れたそっち読み終わってからにしてよ」
「分かっとる」
「ほんまかいな」
「なんじゃそれ」
「え、ツッコミ」

 無言。
 どうせ感性ねえなとか下手なツッコミだなとか思っているに違いない。
 気に留めず、私は薄暗い地下道の中でパラパラとネジがびっしりと羅列っする図鑑を捲る、隣では仁王がやけに手持ち無沙汰な様子でこちらを見たり周囲を見回したりしていた。彼のこんな動作は珍しく、私はつい尋ねずにはいられなかった。

「どうしたの」

 まるで孤独感に苛まれていた子供が、母親に手を差し伸べられたときのような明るい表情。なんだこれ。妙な吐き気を感じて思わず自分の口元を抑えた。
 気持ち悪い。そんな感想を抱かずにはいられない。だって、仁王のこんな表情を、私は知らない。どこでもいつでも、私はただ、彼の気まぐれの矛先に立ち尽くすだけ。それだけだ。今回だって、欲しい本があるけど近くの本屋では見つからないから探してくれなんて笑った仁王の願いを叶えるだけのために私はここにいる。嫌だと思うときもあるし、このままでも別にいいやなんて思うこともある。
 つまり、私も気まぐれなんだ。だから、変化に弱い。
 今の彼の表情に浮かぶのは、確かに「優しさ」と呼べるものだった。

 私は図鑑へと目を落とした。視界で、仁王を追い出す。けれど、聴覚からは逃げられなかった。

「お前さんをどうしていつもここに呼ぶか分からんか」
「嫌がらせでしょ。違うって言っても、私はそうだと思ってた。ていうかどうでもいいし」
「分かっとらんぜよ」
「なにが」

 仁王は呆れたように、息を吐いたようだ。視線の外側で、不安要素がうごめいているようで、私の心中はどこまでも乱されていた。悔しいとか、分からないとか、分かりたくないとか。多くの感情が寄せては引いていく。最終的には「どうでもいい」。気まぐれなのは、私も同じだった。それでなければこんな奇妙な関係は持続していなかっただろう。恋人でもないし、友達でもない。気楽だった。

「まあ、いいナリ。報酬をやる」
「え、今更要らない」
「人の好意を無碍にすると罰が当たると言わんか」
「言うけど。今更。いつも貰ってない」
「そう言わんと」

 彼は捲っていた雑誌を閉じ、小脇に抱えた。それから手にしていた荷物の中に手を入れると何かを取り出す。それをこちらへと投げ寄越してきた。思っていた以上に小さいそれを、私は受け止めきれず取りこぼす。割れ物や生ものだったらアウトだったに違いない。
 ぽんぽんと小さな音を立てて床を跳ねる音がする。青い、スーパーボール。彼が荷物にいつも入れているものだった。今更、なんだろう。スーパーボール小刻みに跳ねては徐々に弾力を失い、やがて地へころころと縦横無尽に転がり続けていた。
 その様をじっと見つめる。

「……いらない」
「黙りんしゃい」
「いらない、ってば。なにこれ。仁王らしくないし、何なの……やだ」
「……」

 何で今更報酬をくれるのだろう。初めてフェアな関係に至ったような気がして、私は酷く恥ずかしかった。仁王の意図は知らない。

「顔が赤いぜよ、名前」
「うるさい。いきなり仁王が、こんなのするから。いつも。いっつも当たり前みたいに私のこと使うくせに」
「どうも極悪なイメージじゃな、それだけ聞くと」
「どうして」
「さあの」
「ねえ」

 いつも最終的には「どうでもいい」はずだった。私たちは気まぐれで繋がっているだけ。その関係に名前が欲しいと思ったことは、一度もない。それなのに。

「どうして、仁王」

 それなのに、今の私は答えが欲しくて仕方がなかった。

ゆるやかに傾いて、膨れ上がる
20101110/ナルセ