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 いつもは施錠されたままで立ち入り禁止にされている屋上の扉が、重厚な音を立てて開かれた。ふわり、と、初夏の生暖かい風が頬を撫でる。ひんやりとした校舎内からは一転、穏やかな気温の変化はまるで体に熱を取り込むよう命令しているようだ。じわりと湿気に宛てられた肌が汗を浮かべ始める。
 それを拭うこともせず、私は一直線に屋上のコンクリートを突っ切った。手すりの方へ駆け足で近付いていく。その近くに設置された天体望遠鏡は、ポツンと寂しさを訴えるかのように一人で佇んでいた。
 雨のせいで湿気の含んだカバーを外す。

「本格的なんだね」
「えー、仮にも天文部なんだけど。っていうか本格的じゃない天体観測ってどんなの?」
「ただ上見るだけとか」
「肉眼で? それもいいかもしれないけど、少しでも空に近付きたいなら、やっぱりこれがないと」
「……」
「何その、顔」

 天体オタクを哀れむ一般人の典型的な視線、みたいな名称が付きそうな彼の眼差しに、一瞥を向けた後で、私は手元にある望遠鏡が設置された経緯台で角度を調節する。観察をする上での準備に取り掛かったのだ。収納していた接眼レンズを取り付け、ピントを合わせていく。その間、彼は手持ち無沙汰のように空を見上げたり、私の操作を見つめていたりした。

「よーし、こんなもんだ」
「見えるの?」
「あ、ちょっと興味津々」
「それは」
「それは?」
「そんな目輝かせてるの、見たら、楽しいのかなって少しくらい思う」
「まじ? そんな顔してた?」
「いつもつまんなそうな顔してる人がすると余計」
「いつもつまんなそうにてるって、よく知ってるね」
「……」
「都合よく黙るの、墓穴掘ってるって気付かない?」
「そんな、こと」
「まあ、でも。それは降谷君にも当てはまるよね」
「え?」

 降谷君の顔は見なかった。ファインダーに目を向け、片目を瞑る。私は感動していた。地上から手を伸ばしても絶対に届かない世界が、そこにはあった。広がっていた。人が滅多なことでは立ち入ることの出来ない世界に、視界だけが飛んでいく。「ロマンでいっぱい」気づけば、そう声にしていた。

「いつもつまんなそうな顔してる人がすると余計ってやつ。野球、面白い?」
「うん」
「あはは、そういうのは即答なんだ」
「楽しいのは本当だから」
「じゃあ」

 ファインダーから顔を上げ、降谷君へと振り向いた。一歩後退し、望遠鏡を手で指し示す。彼が小さく首を傾げる素振りさえ確認できるほど、空は明るかった。

「楽しさのお裾分け」

 そういうと彼はこちらとの距離を詰め、やがてさっきまでの私と同じような体勢でファインダーを覗き込む。身長が違うため、彼の腰が痛くなったりしないかと少し心配した。すごい、と消えそうな声が聞こえた。本当に消えそうなくらい小さな声だったけれど、静寂さを形容した夜と、近い距離にいたお陰か。私はそれを辛うじて拾い上げることが出来た。

「ロマンティックでしょー。でも天文部っていうのはロマンを求めて集う団体じゃないよ。事実、可能性を信じてここに来たのは私一人だったわけだし。でもまあ、降谷君がいたっていうハプニングがなんか、こう、求めてなかったけどうっかり貰っちゃったロマンみたいな感じ。棚からぼた餅? みたいな?」
「大丈夫?」
「少しでも校門で誰か来るかなーって期待してた時間が長かったらこうして降谷君と天体観察なんて出来なかった訳だし。こういう出来事が運命とか都合良い名前が付くのかな。なーんちゃって、都合良すぎ。有り得ない話だよね、はは」
「それでも」
「ん?」

 星空を覗いたまま、彼は私の一方的な言葉をひっくり返すようなことを言い放った。「それでも運命だとか、思ったりする」
 大丈夫? それはこっちの台詞だ。何を言ってるのか、彼は。処理能力が働こうとしてくれない。

「苗字さん」
「何、っす、っか」
「何その声。裏返ってるよ」
「気にすんな! で! なんですか!」
「何でいきなり敬語なの」
「だっ、だって」
「だって?」
「せ、せっかく私が、有り得ない展開を根底からひっくり返して、自分がうぬぼれないように先回りして、有り得ない話で片付けて、それでハイ、おしまいってしたかったのに」
「おしまいにしたかったの?」
「……」
「都合よく黙るの、墓穴掘ってるって気付かない?」
「それ、私の台詞なんだけど」

 悔しさと恥ずかしさに、私は取り繕うように空を見上げた。アルタイルとベガ。彦星と織姫という別名を持った星が肉眼で捉えることの出来る空の世界では一段と強い輝きを持ち合わせていた。今頃年に一度の逢瀬とやらを楽しんでるのだろうか。もし存在したら、の話だけど。ロマンとか運命とかそういうものを信じるなら、逸話の一つでも信じた方がいいのかもしれない。事実今私は、なんというか、有り得ないと思っていたロマンが自分自身に降りかかってきていたのだ。

「苗字さん」
「……何」
「今度、試合見に来て」
「どうしてですか」
「楽しさのお裾分け、のお返ししたいから」

 ファインダーを覗き込む彼の口元が、微かに笑ったような気がした。





20100802/成瀬
 運命っていうと、少しでも響きがよくなるでしょ。それと一緒。天の川っていうと、ただの星空がなんだか一段と素敵なものに感じる。星空っていう言葉も素敵なんじゃない? なんて野暮なことは言わないでよね。何事にもランクっていうのは存在するの。エースが一番、控えが十一番を背負う野球みたいに。つまり何が言いたいかっていうと、偶然っていうのは運命のランクの中に入り込んでる。偶然、必然、運命、ランクが違えど、結局のところ全部決まったことで、誰もが待ち望んでいることなのだ。少ない可能性に掛けるかどうかで、ランクは決定されるのだとしたら、私は成功したのだろう。
 あーどういったらいいかわかんない。だけどなんか、結局都合良く考えてしまって、結局のところ、私は信じてないにも関わらず信じてたのだろう。運命とか偶然の産物とか。恥ずかしい奴だと自嘲した。