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 可能性が残っていると信じたのは、どうやら私だけらしい。自分以外、人影のない青道高校正門前。時刻は二十時を少し回ったところだった。片手に懐中電灯を持ち、それを掲げながら周囲を伺う。みんなで摘もうと持ってきた鞄の中に入ったポテトチップスのパッケージが虚しさを訴えていた。
 約束が確定したのは授業も終わり、思い思いの放課を迎えた午後五時のことだった。天文部に所属するメンバーが夜の打ち合わせと称して廊下の一角に集っていた。三年の部長が廊下から臨むことの出来る空を見上げ、鬱蒼とした溜息を吐く。それを皮切りに、それぞれが同様に空を仰いではそれぞれが諦念したような表情を浮かべていた。

「雨じゃあ、今日の天の川は拝めなさそうだね」

 ぽつりぽつりと、下校に繰り出す生徒達でごった返す校舎内にもその音は届いていた。それほど雨脚が強いのだろう。七月七日、それは天文部にとって単にラッキーセブンがリーチした日付というだけの意味合いではなかった。「七夕なのになあ」部員の一人が、私の思考を読み取ったかのようにその名称を口にする。呼応するような溜息が、私たちの間に一つ、零れた。それが誰のものなのか、追及することもなく。

「とりあえず中止って方向で」
「でも夜には止むかもね」
「雨が止まないかもしれないのに家を出るの? 傘を持って?」
「雨が止むかもっていう可能性と傘を持って家を出たらいいんじゃない?」
「プラマイゼロ」
「マイナスよりはマシ」

 部長が下した判断はこの場に一番適していたかのように、部員達はその言葉に反論を見せようとしなかった。ただ、残された少しの可能性だけを信じようという微かな「天文部員」としての変な意地が突出する。私はそっと場の成り行きを見守っていた。心の中では今夜学校の屋上に上って、予め設置してある望遠鏡を覗くというプラン通りに行動しようと決めていたからだ。雨に濡れても大丈夫なように、と掛けられたカバーは一体何のために掛けたのか。雨に濡れても、大丈夫なように、だ。それなら雨天決行なんて、私の中では前提中の前提として存在していた。
 というわけで、今私は片手に懐中電灯、片手に折りたたんだ傘、心中には雨が止むかもっていう可能性を持ち合わせ、一人学校の正門の前に佇んでいた。待ち合わせ時間の二十時を七、八分ほど過ぎた今、これ以上待っても自分以外に誰かが来るという可能性は夕方の時点で雨が止むという可能性よりも低いと判断した私は、閉じられた正門にそっと手を伸ばした。ひやりとした鉄の感触が、暑くなり始めた初夏の気温に反してとても気持ちがよかった。

- - -

 予め部長が学校側に話を通しておく、と事前に言っていたため、予想通り校舎内へ通じる昇降口は鍵が施錠されないままだった。宿直の先生なんていないだろうから、一体誰が天文部の去った後の校舎の施錠を行ってくれるのだろうと思ったけれど、答えの出ない迷宮にうっかり足を入れそうになったため思考を断つ。
 一人きりで進む校舎内はさながら、RPGのダンジョンのようだ。懐中電灯で行き先を照らしつつも、微かな物音に物怖じしないような心臓は生憎持ち合わせていない。風の音、呼応するように揺れる窓ガラスの振動に内心動揺の色を浮かべつつも、足を屋上へ続く道から外すことはしない。
 そんな道のりに転機が訪れたのは自分のクラスの教室を横目に通過しようとした時だった。ガラリと、金属同士の擦れ合う、決して良いものとは思えない音が鳴り響いた。今まで自分の足音だけに傾けようとしていた聴覚が、無理やりそちらへ引っ張り込まれる感覚に、私は無意識に肩を上下させる。誰かに呼吸が奪われたような感じだった。

「ふ、るや君?」

 音のした方へ向けた目が、暗闇の中にぽっかりと浮かぶ白を映し出した。それが野球部のユニフォームであると認識すると同時に、懐中電灯に照らされ、眩しさに顔を歪める人物に心当たりのあった私はそっと搾り出すような声で、名前を呼んだ。そこに立っていたのは、私の心臓を常日頃から煩くさせる人物でもあった。つまり、好きな人。
 心の中だけで呟いても、恥ずかしくてもがきたくなる。伝えるつもりもないし、ただのクラスメートで充分な距離だった彼と思わぬ遭遇を果たし、私の思考はぐるぐると螺旋階段を築き上げていった。

「苗字さん」

 なんでいるの。そう続くだろう、驚きの口調に、私は彼が望むような応えは示さなかった。ガラガラと開いた時とは対照的に遠慮の込められた音を立てて、教室の扉が閉まる。何となく扉へと向けていた懐中電灯の光が再び降谷君へ焦点を移す。眩しそうに目を細めめる彼の手には見慣れた英語のテキストが握られていた。そこで私は合点がいったように、あ、と小さく声を上げた。

「忘れ物?」
「宿題、するのに」
「へええ」
「何その、珍しそうな声」
「部活でくたくたなのに、真面目に勉強するんだ」

 実際、彼の成績はクラス中が周知しているものだった。赤点のオンパレード、補習という名の地獄、まさにその犠牲者だと思っていた彼の意外な一面に私は可笑しさを込み上げた。

「宿題しないと、確かに危ないよねえ成績」
「……」
「ばかにしてるんじゃなくて、同志の抜け駆けに悔しさを噛み締めてるだけだよ」
「同志?」
「私も数学赤点だったし」
「意外」
「え、嘘、何? 秀才っぽい? 私」
「……苗字さんこんな時間に何してるの」
「あからさまに話題逸らした!」

 自分の笑い声が廊下に響く。私たち以外の誰かが遠くで聞いたら、ありがちなホラー映画のワンシーンになっていただろうな。けれど残念ながら、ずっと奥まで続く廊下には私たち二人以外の人影はなかった。あってもちょっと困るけど。

「雨降ってたっしょー」
「え、何の話?」
「本当は今日、部活だったの」
「こんな時間に?」
「だって今日は七夕だもん」
「苗字さん、何部だっけ」
「天文部だよ」
「ああ」

 なるほど、と納得したような首肯の後、降谷君はそれでも納得行かないといった感情の名残を浮かべている。

「一人で?」
「ん? 天文部はちゃんと十人くらいいるよ」
「そうじゃなくて」
「あー、本当はみんなも一緒だったはず。でも、少しの可能性に掛けるっていうドラマ性を求めてたのは私だけみたい」
「何の話?」
「それさっきも言ったよね」

 懐中電灯を降谷君から逸らし、私は進路方向へそれを向ける。暗闇の中に浮かび上がる、僅かな光源はそれだけでも非日常の欠片を持ち合わせているように思えた。夜の学校、有り得ない遭遇、心なしか怖がってばかりだった私の胸のうちは弾み始めていた。

「天体観測」
「へえ」
「そうだ」
「何?」
「部員じゃないけど、良かったら一緒に屋上行かない?」

 僅かな期待とか、高揚感とか、そういうものを勘ぐられないようにわざとそっけない言い方をしても降谷君は普段の私との違いに気付かない。それもそうか。眼中にないような感じだし、そんな期待もしてないし。「え?」予想通り、彼は私の提案に驚きを浮かべていた。あ、これは断られるかもしれない。そう結論付けて、早口で言い訳とでも、弁明とでも取れるようなことを捲くし立てた。

「あ、嫌だったり疲れてたり興味なかったりしたら遠慮なしに断ってくれてもいいよ」
「断るパターン全部見透かした感じの言い方」
「他に何かあった? あ、私と二人が嫌だとかそういう理由かな。それはちょっと盲点だった。そんでもって少し傷心した」
「別にそんなこと言ってない」

 じゃあ、どう? 尋ねつつ、私は彼から一歩距離を取る。窓側に足を向け、夜を背負う形で教室側にいる降谷君を見た。月明かりに照らされた彼の容姿は昼間見るよりどこか大人びたように思えて、本当に同級生なのかと一瞬疑ってみたりもした。
 独特な雰囲気、他の男子とはどこか一線を置いたような存在、でも、野球をするときは違う。って人づてに聞いた話だから本当かどうかは知らない。それでもそんな情報を私が知っているのは、情熱的だとか、投げることを覚えたばかりの子供みたいだとか、何かと注目されている彼の噂は絶えることがなかったからだ。噂や他人の評価ほど信用できないものはない。それでも少なくともここにいる彼は、昼間教室でプロレス技を掛け合っては馬鹿笑いをしている男子と縁遠く思えた。だから、特別に思えるのかもしれない。そんなバイアスが相俟っているのだろう。「ここで、もし僕が帰ったら苗字さんは一人で屋上へ行くんでしょ」言葉の選び方も、彼が他の男の子とは違うという私の考えを助長させていた。

「えー?」
「危ないよ」
「もしかして、心配してくれてる?」
「そういうのじゃなくて」
「じゃあ、何?」
「そういうのじゃなくて」
「二回言わなくていいから、続き」
「……もっと自覚したほうがいいよ」
「へええ」
「その珍しそうな声も二回目だよ」
「だって実際、珍しくない? 降谷君って女の子とか、そういうの疎そう。っていうか野球部のイメージが」

 「知らないよ」そう言って彼は先導するように歩き始めた。まるで最初から屋上へ行くことが目的だったみたいな足取りに、私は違和感と浮き立つ気持ちを抱いた。彼の歩く先を照らすように、懐中電灯を揺らす。ゆらゆらと揺れる光と、二人の足音、その二つだけが屋上へ続く通路の至る所に刻み付けられていった。少なくとも、私の足取りは今までにないほど軽やかなもの。都合のいい女だと自分で自分を軽侮してみたりした。


→後編