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 機械ばかりに囲まれて過ごしたあの部屋とは、どう足掻いても距離を縮めることは出来なさそうだ。コーヒーが恋しい。ここへ来てからというものの、あの狭い室内で暮らした日々がいかに輝かしい日常だったかということを思い知らされてばかりだった。

「私の雇い主がね」
「雇い主?」

 コーヒよりもすっかり淹れることがうまくなってしまった緑茶を啜りながら、縁側から空を仰ぐ。「システムエンジニアだったんだけど」お天道様の機嫌は良いみたいだ、なんて笑っていた紺の隣に腰を下ろした私は徐にそんなことを言ってみた。

「何だよ、お前SEだったのか」
「違うよ」
「だってエンジニアの下で働いてたんだろ?」
「カエルの子は必ずしもカエルとは限らない」
「オタマジャクシだろ」
「その返しは在り来たりすぎるよ、紺」
「手厳しいねえ」

 盆に載せてあった二人分の湯呑みの片方を、紺は手にしながら乾いた声を零す。飲んでいいなんて、一言も言っていない。けれど彼はその考えを見透かしたかのように「堅苦しいこと言うなよ」と言って、私の行動を真似するかのように彼もまたお茶を啜った。

「ん、うまい」
「それは、どうも」
「で? エンジニアが何を仰ったのかな」
「ん? ああ、えーっと。目に見えないからこそ存在する虚実から、真実だけを見つけ出したいって。それこそがエンジニアとして働く意義だって」
「随分ご立派なこって。まるでエンジニアの鏡だな」
「多分、そんな感じのこと言ってた。私の解釈だと。でもそこにも嘘があるかもしれないよね」
「おいおい、そんなこと言ったら人間不信になるぞ」

 手にしていた湯呑みを盆に置き、私は自分が纏う着物に目を下ろした。現代よりも劣る生活環境。ここにはコーヒーメーカーもなければ、コンピュータ一つ存在しない。

「その人が、もしここに来たらどうなるかな」
「まあ、機械中毒ってのは、一番こことは無縁に思えて仕方がないよな」
「思えて、ってことはそうじゃない?」
「さあな。けど、どこか、似た匂いを感じる」
「匂いって、紺はいつからイヌ科イヌ属の仲間入りをしたのさ」
「そういうんじゃねえよ」

 頬を掻き、紺は苦笑を漏らす。よく思う。彼は、大人びた表情ばかりする、と。ここへ来た時の年齢は現代で言うと高校生だ。そこから長い年月を経ているとしても、彼は最初からそういう表情を見せていた。年上の私ですら敬意を払いたくなるような、大人のそれ。自分がどことなくまだ子供だと思い知らされているような気がして、本当は彼が苦手だった。反面、どこか若桜にも似た雰囲気があったためか、同郷という括りに当て嵌められるせいか、よく話すことも事実だった。

「よく思う。ここは、まるでゲームの世界だ」
「ゲーム? ありがちな、歴史物?」
「まあ、そんなんだ。作者がいて、そこに俺達は登場人物、キャラクターとしてパズルのピースの一つになる。作者の中で、『そういう風に』設定される」
「そういう風にって、どういう風に」
「システムの一つの中に組み込まれるってことだ」
「なんか、本で読んだ話に似てる」
「へえ」
「社会はシステムだっていう、話」
「そりゃ一度読んでみたい本だな。帰れたら紹介してくれよ、あっちで」

 「こっちの本も嫌いじゃないが、やっぱり現代の文字の方が慣れてるしな」という言葉には私も同感した。現代では趣味にしていた読書というものを、私はここへ来てぱったりと止めてしまった。理由は簡単だ。文字は読めない、読めても理解出来かねない、読もうという意思が働かない。けれど活字を好む性格は少々、文字に飢えていたのも確かだ。紺は膝の上に載せていた書物に手を添えると、口元を穏やかに釣り上げた。

「よく嫌気が差さないね」
「そらこっち来たばっかの頃はそんな気も起きなかったけどな。ありふれた時間を潰すには読書が丁度いい」
「暇は潰すものじゃなくて過ごすものなんだよ」
「お前は暇と共存し過ぎだ」
「きっと、紺はその雇い主と話が合うと思う」
「おー。俺もお前の話聞いてたらちっと興味湧いたわ」

 帰れたら紹介してくれよ、あっちで。
 私は首肯しながら、盆に置いていた湯呑みを再び手にする。揺れる緑色の表面に、一本の茶柱が立っていた。

「そうだな。社会はシステム。それならあまつきだってシステムの世界と同じだ」
「じゃあ、いつか」
「ん?」
「システムの中にあるプログラム? みたいなものが壊れたら、帰れたりするのかな」
「さあな。でも、システムは必ずしも万全とは限らない」
「じゃあ、壊れることだってあるよね」
「万が一よりも、億が一って可能性の方がでかいと思うけどな」
「……きっと、フランキー・ジョーが、助けてくれるよ」
「誰だそれ?」

 首を傾げる素振りを見せた紺に誤魔化すような笑みを向けて、私は空を仰いだ。天網という見えない糸の張らされた世界。何もかもが決められた世界。その中で、私と紺がこうして縁側でお茶をするという運命は描かれているのだろうかとふと気になった。
 彼は若桜に似ている。笑い方とか、立ち振る舞いとか、雰囲気とか。全部漠然としてて、どれ一つ証拠にはならないけれど。天網と同じだ。見えないけれど、確かにそこにそう思わせるものがある。彼と彼は。似ている。
 だからだろうか。あの部屋で毎日淹れていたコーヒーの香りと彼の姿が、目に浮かんでは私の胸を熱くさせた。

「ん。ごちそうさま」

 横を見れば紺はすっかり湯呑みの中を空にして立ち上がっていた。どこへ行くのかと尋ねる前に「夕食の仕込みしねえとな」という声が続く。納得したように頷いた私の頭を一つ撫でて、彼は去っていった。「茶、うまかったぜ」という言葉を最後に。
 美味しいと言って、私のコーヒーを毎日飲んでいた彼の、パソコンに向かう背中がふと目頭に浮かび上がる。今まで結構、平気だったのに。
 どうしてかそんな彼の後姿が、とても恋しく思った。