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 システムエンジニアの話をしよう。
 辞書を引くと、【コンピューター-システムの分析と設計に携わる人。情報処理技術者。SE 。】そう書いてある。実際、俗に呼ばれるSEの知り合いが普通でないせいか、その存在は私にとって、とても奇妙だ。一日中パソコンの前に座り、日本語は思えない言語を扱い、ディスプレイに顔を向けたままキーボードを叩く姿は酷く滑稽に思える。目に見えない情報というものを売り物にして、一端に社会の一員として働いている。それはスーパーで野菜を売る店員と変わらない。仕事、なのだ。ただそこには、仕事として彼らが一体何をしているか、という目的が明確ではない。野菜を売る、コーヒーを売る、服を売る、目的のために仕事は存在していて、そこには意義がある。けれど情報を売るシステムエンジニアは、どうして目に見えないそれを売り物と出来るのだろう。彼らの働く意義とはどこにあるのだろう。
 あるエンジニアは、ソファに座り本を読む私に向かってこう言った。「それは、そうなってるからだよ」顔は相変わらず、意味の分からない文字の羅列するディスプレイに向けられている。話をする時は人の顔を見て話せ、という人として基本的なことも忘れてしまったのと答えた私の言葉に、乾いた笑いが応えた。欲しいのは、そんな反応じゃない。

「じゃあ名前ちゃんの仕事を例えてみよっか」
「ただのコーヒー淹れ係の仕事と、ご立派な若桜の仕事が同類になるの? ありえない」
「悲観的だなあ」

 カタカタと止まることなく彼の指が黒いキーボードの上を滑らかに動く。速さで言ったらそこらの同業者よりも勝るんじゃないか、と思った。少なくとも機械に疎い私よりは、と考えたところで立つ土俵の違いに気付いて思考を止める。見計らったかのように若桜の手がぴたりと止まった。

「何で名前ちゃんは俺にコーヒーを淹れてくれるの?」
「それは仕事だから」

 きっぱりと優等生が小難しい数学の問題に自信を持って発言するように、言い放つ。若桜は満足そうな顔をこちらに向けた。ようやく顔を合わせた彼の口元のシルバーピアスが光に反射する。目の保護とかトレードマークだとか、よく分からない理由で存在しているゴーグルの向こう側で瞳が愉快気に揺れた。

「そ、俺も同じ」
「仕事だから? 目に見えないのに?」
「目の前に転がってる、やらなきゃいけないことをこなしているって意味では名前ちゃんのお仕事と一緒だよ」
「私にはコーヒーっていうちゃんと見える、はっきりしたものがあるよ」
「情報だってそうだよ」
「よく分かんない」
「じゃあ、名前ちゃんは、俺にコーヒーっていうものを与えてくれるよね? それでも名前ちゃんは俺がそれをどう思って受け取ったかとか、その味についてとか、ちゃんと全部を把握出来てる?」

 問われ、逡巡する。普段、私はどんな気持ちで若桜にカップを渡しているだろうか。頭の中で毎日繰り返すその行動をシュミレーションしてみた。今朝淹れたコーヒーの味、若桜の気持ち、仕事といってこなした私の仕事は、見えない部分の方がなるほど、確かに多いかもしれない。

「それじゃあ」
「ん?」
「私が今日から若桜にコーヒーを出すの、やめるって言ったら」
「それは困るっしょ」
「私が?」
「名前ちゃんも。もちろん、俺も」

 そういって、傾けたカップの先に残る液体は、僅かだった。それを目敏く発見した私は、手近なテーブルに置いてあるコーヒーメーカーのスイッチをオンにする。機械に囲まれた部屋の中で、私が羽を伸ばして寛げる空間は今座っているソファと目の前のテーブルだけだ。ディスクだのシステムLSIだの、大量に発生する物を収納するようになって、コーヒーメーカーや豆といった大よそ仕事とは関係のないものはキッチンから追い出されここに留まることになっていたため、テーブルの上はまるで簡易キッチンのような有様になっていた。封をしていた袋の中から匙で計量した豆を機械に投入していく。

「よく分からないけれど、仕事だからやってる。そういうことになってる。仕事なんて全部がそうでしょ。自分がしたことで相手がどう思ったかなんて測れないし、測ろうと思ってもそこにはたくさんの嘘が混じってて何が本当かなんて誰も分からない」
「情報に似てるね」

 コポコポと湯気立つメーカーを一瞥し、若桜は「資料濡れないように気をつけてね」なんて余計な心配をしてみせた。もちろん、把握しておりますとも。私の軽口に、若桜は苦笑する。

「繊細なんだよ、情報っていうのは。人が作ったものだから」
「人が繊細だなんて言ったら、戦争もくだらない論争も起こらないと思うけど」
「繊細さゆえに起きることだってたくさんある」
「何の話?」
「人の話?」
「聞き返さないで」
「いやあ、俺に言われてもなあ」

 好きな人は好きだろうなあ、なんて思いながら、コーヒー豆の焙煎させる香りの漂う室内に流れる沈黙は一瞬のものだった。「何の本?」私がテーブルの隅に置きっぱなしにしていた本を見た若桜が尋ねた。

「小説だよ」
「へえ」
「若桜はあんまりそういうの、読まないよね」
「それも俺が与えた、見えないもの、つまり情報の一つだけど、真実だとは限らない」

 若桜が意地悪く笑う。

「嘘。若桜が小説なんて読むの?」
「さあてどうでしょう」
「はぐらかさないでよ」
「正解は、読まない」
「やっぱり」
「そういう、真実性が見たいから」
「え?」
「俺は紛い物が多い、情報っていう中身を扱う仕事を選んだ理由。そんでもって、働く理由」

 抽出を終えた機械の凹凸に手を伸ばし、電源を切る。熱そうなそれを、冷めないうちに注ごうという私の意思を汲み取ったかのように、若桜がマグカップを差し出してきた。白い陶器を手にし、ビーカーを拡大したようなガラス製のそれを、カップの縁にくっ付ける。コポコポと、注がれた液体の表面に薄っすらと自分の顔が映し出された。
 カップを若桜へと差し出す。彼は受け取るや否やすぐにそれを口へと運んだ。熱くないのかな、なんて私の心配も余所に、彼は「美味しい」といつも通りの言葉を放った。それを見て、思った。私の働く意味は、ここにあるんだ、と。

「ふざけたように見えて、意外と色々考えてるんだ、若桜ってば」
「ふざ、って、ひどっ」
「褒めてるんだよ、一応」
「ほっほー、じゃあ俺のこと見直した?」
「惚れ直した」

 咳き込む声がした。

「冗談だよ」

 あれ程私には汚さないようにと注意していた癖に張本人が、書類をコーヒー色に変えてどうするんだ。そんな意味を含めた視線を向けた私へ、若桜が子供のように頬を膨らませ喚く。「だっていきなり名前ちゃんが変なこと言うから!」

「変なこと? 言ってないよ」
「嘘、惚れ直したとか。珍しくデレて!」
「その情報は嘘だとか、そういう想定はないの? システムエンジニアさん」
「性格悪い!」