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「御幸には酷い女が似合うと思うよ」

 発した言葉に、彼はとても、それはもう今まで見たことがないくらいに目を丸くしていた。

「なに、別れ話?」
「どうしてそうなるの?」
「や、だって」

 御幸の肘に当たる位置に置かれているスコアブックに目を落とす。三年生が引退して、彼が新キャプテンになって、それでも今までと変わらない毎日が訪れているように見えた。少なくとも、私にはそう思えた。スコアブックを授業の合間の読書にしているのは彼の習慣と言っても過言ではなかったからだ。いつも通りにハードな練習を朝からこなしていても、彼は休み時間に眠ることは滅多にない。
 開かれたままのそれが風に靡き、パラパラとページが捲られていく。ふとそれが、先週行われた練習試合のものだということが分かった。日付からそう、推定する。

「この日、私は駅前でウィンドウショッピングしてた」
「いや、聞いてねえし」
「ていうか、だって、何?」
「あー、だって」
「うん」
「ひでえ女が似合うとか言うから」

 いきなり、と彼らしくもない。語尾が弱々しかった。休み時間にこうして男女が二人きりで時間を潰すというのは、同級生からしてみれば格好のからかいの対象にもなるというのに、私たちの間柄を冷やかす人は皆無だった。みんな心の中では思っていても、行動に移そうとしていないだけかもしれない。それは終わりの見えない単なる推測にしか過ぎない。価値もない。私は思考を周囲から、目前へと切り替えた。

「わ、じゃあ私が酷い女だとか、そういう考えはないんだ」
「あー……、まあ、そうなるんじゃねえの」
「愛されてるーう」
「今のお前は好きじゃねえけど」
「そういうのは簡単に言うべきじゃないと思うなあ」

 周囲にされないから、代わりに。そう捉えられても可笑しくない冗談めいた私の口調に、御幸は目を細めた。機嫌の損なった表情を浮かべている。余裕めいた笑い方よりもこっちの方が私は好きだった。だってその表情は、私だけが引き出せて、私だけに向けられているから。

「じゃあ、何? 好きだぜーって甘く囁けばいいわけ? 他の女薦められたってのに? 俺そこまで余裕ある男じゃねえんだけど」
「ちょっとは余裕見せたら?」
「名前相手にそれはムリ」
「わ、殺し文句」
「惚れ直した?」「感心し直した」
「何で」

 予想していた回答の得られなかった教師みたいに、愕然とした表情で御幸が尋ねる。「さあ、知らない」その相手は自分自身だというのに、私はどこか客観的な気持ちで答えた。「でも」そして、言葉は続く。

「思ってたよりも、御幸の中に私がいることにびっくりした」
「何だよそれ」
「てっきり野球だけかと」
「まあ、ボールは恋人だっていうしな」
「友達の間違いじゃないの?」
「冗談。友達だったらあんな剛速球受け止める包容力発揮できねえし、するつもりもねえよ」
「愛の成せる技って?」
「そう、それ」
「だからだと思う」
「何が?」

 御幸にはそういう、酷い女の人が似合うと思った訳。
 私の言葉に、御幸は笑った。「俺、そこまでドMじゃねえけど」その言葉に嘘偽りはありませんか? 多分、少しはウソ発見器も反応しちゃうと思う。

「じゃあ仕切り直し」
「何の」
「だからだと思う。御幸に友達が出来ない訳」
「はっはっは」

 もう一度スコアブックに目を落とす。野球部の彼氏がいるからって、野球に絶対興味がなくちゃいけないなんて法律は存在していないから、その字面が私には怪文に思えた。ただ頭の中には休日を物欲にまみれ過ごした先週の日曜日の自分自身の服装が映し出されていた。
 誰かに見せるわけでもないのに尽きることのない服への物欲っていうのは、ある意味恋に似ている。勝手に相手を思いやるようなことして、相手のせいにして、自分が満足したいために行動すること。それは恋をしている私も、買い物をしている私も、どちらも似通っていた。

「全部、やめるつもりです。って言った田島もこんな気持ちだったのかな?」
「タジマって誰」
「昔の小説に出てきた、男の人」
「タジマは知らねえけどお前の苗字はタジマじゃねえだろ」

 なんかよく分からないけれど、励まされた時の高揚感を思い出した。それきっと、御幸の言葉が「お前はお前だろ」という激励の時に言われるような言葉の語幹にとても近かったせいだと思う。

「で、そのタジマは何したの?」
「小説貸そうか?」
「いや、いい」
「簡単に言うと浮気」
「は?」
「ウワキ。何人もの女の子と同時に付き合ったの」
「は、……え? お前?」

 一日に二度、彼の驚倒した顔が見られる日なんて、後にも先にも最初で最後かもしれない。私は笑った。私の発言に揺れる彼の姿が、嬉しかったのと、切なかったのと。半々だった。余裕めいた表情なんてどこかへ行ってしまえ。余裕なんて言葉は、世界の片隅に追いやってしまえ。大嫌いだ。だから私は御幸の余裕を消したかった。その結果が、これだ。

「でも、全部やるつもりなんです、って言ってやめた。田島は」

 救済させるつもりなんてなかった。ただ事実を述べた。だから私もやめますとは言わなかった。毛の先ほどもない言葉は、絶対に言いたくない。

「お前、ウワキしてんの?」
「さて、問題です。私は先週の日曜日何をしてたでしょうか?」
「何って、ウィンドウショッピングって、さっき」
「正解。それじゃあ次の問題。私は先週の日曜日、ウィンドウショッピングを誰と、してたでしょうか?」
「……」

 珍しく、彼は押し黙った。私は続けた。

「正解は御幸以外。それだけ」

 誰かに見せるわけでもないのに尽きることのない服への物欲っていうのは、ある意味恋に似ている。訂正、誰かに見せたいから、恋をしているから、私は服が欲しくなる。
 その相手は別に、御幸じゃなくても構わない。だから私は別れ話を切り出したつもりはなかった。だって、それは今現在進行形で続いていることだから。

「だから、御幸には酷い女が似合うよって言ったでしょ?」

 パラパラとスコアブックの捲られる音がする。ざわざわと騒がしかったはずの教室の雑踏の声は、随分遠いところ、世界の片隅に余裕という言葉と一緒に追いやられてしまっているようだった。私は笑った。嬉しかったのと、切なかったのと、どうしようもない自己嫌悪の行き先にあった行動がそれだったせいだ。





20100710/ナルセ
余裕めいた顔なんてしないで、こっちを向いて。じゃないとどこかへ行ってしまうよ。例えば、世界の片隅だとか。
引用:太宰治「グッドバイ」