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 彼のヘアピンが、音を立てて地面に落ちた。

「吉野に行ってみたい」
「何を?」
「そこは何で、じゃないの?」
「え、言ってみたいことがあるんじゃないの。僕に」
「そっちの吉野じゃない」
「じゃあどの吉野」

 そんなに吉野ってあったっけ。巡らせる思考の片隅は、彼が落としたヘアピンに向けられている。クロスするように器用に彼の長い髪を纏めるその一つが、空しく地面に横たわっているのを見て、私は笑った。笑った後で、すぐにそれに手を伸ばし拾い上げた。自分の中に彼がいるような感覚だった。空しいのはこんな冷たい金属よりも私のほうかもしれない。

「冷たい」
「どれが」
「ピン、落ちたよ」
「うん、ありがとう」
「すごい、綺麗」
「え?」
「綺麗に纏められてる。男の子が一人で学んだにしては上出来」
「うん、ありがとう」
「一人じゃないくせに」

 教室の隅で、広げたままの地理の資料集。片手にパラパラとページを捲っていくと丁度それはあった。

「ヨシノ」
「え」
「桜が綺麗なんだって」
「へえ」
「名所らしいから一度くらい言ってみたい」
「それってどこにあるの?」
「ここからすごく、遠いところ」

 ヨシノっていう名前は私ととことん距離を置きたいらしい。綺麗なものに嫌われるなんて、そんなに私は汚いか。
 彼の見つめていた携帯の中に存在する彼女の記憶も、私が記憶するヨシノの記憶も、全部全部、遠くに思えるほど。彼は遠い。ヨシノは遠い。全部独り占めにしたいと思う私は汚い。人間なんてそんなもんだって、彼は知っているはずだ。彼の大事な存在を消してしまったのは他でもない人間。
 彼にヘアピンを差してあげる人間はもういないのだ。

「代わりはいる?」
「うん?」
「ヘアピン。すごく、緩くなってるみたいだから」
「うーん……いやいいよ。これで」
「そう」

 そして私はどうやら、その人間になることも許されないらしい。吉野は私から受け取ったピンを慣れた手つきで広げると自分の髪に差す。さらりと風に流れた柔らかそうなそれに、私は目を細める。窓の外では雪が降り始めていた。

「また降ってきた」
「まだ桜どころじゃないね」
「そうみたい。吉野行くのは、もう少し後かな」
「いつ行くの?」
「ん〜……春休みとか?」
「そっか」

 漠然とした私の答えをバカにすることもせず、吉野は笑った。

「冬休みもまだ来てないのに」
「でも冬に桜は咲かない。でしょ?」
「それもそうだね」
「早く春が来て欲しいなあ」
「そしたら」
「うん?」

 吉野は黒いマフラーに口元を隠したまま、暫く思案しているみたいだった。生徒も先生もいない放課後の教室で、一体何を戸惑うというのだろうか。恋人達が密かに及ぶ、密事でもないのに、第一私たちにそんな関係は成立しやしないのに。それでも。それでも吉野が言ったことに、少なからず光を感じてしまった私はとても滑稽だったかあるいは。

「そしたら、僕も吉野へ行こうかな。名前と一緒に」
「代わりは要らないって言ったくせに」
「名前が誰かの代わりになるなんて出来ないよ。それが、普通の、ことだ」
「……一人じゃないくせに」
「そうだね。君がいる」
「私の分まで旅費払うくらいの男気は見せてよね」
「それは無理」

 あるいは、私という人間の関節が外れてしまったのだろう。いつかの世の中のように。




20100627/成瀬