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 シャワーがコンクリートの床を打つ音がする。遠くでそれを感知しながらも私の手はまるで何事もなかったかのように動き続けていた。適当に千切ったレタス、こんがりと焼いたベーコンに、昨日買ってきたばかりの赤々としたトマト。それらを用意できたと同時に、若桜の造ったトースターが小気味良い音でパンの焼き上がりを知らせてくれた。薄切りの四枚と取り出して、丁寧にマヨネーズを塗っていく。その途中でシャワーを済ませた若桜がひょっこりと顔を覗かせて声を上げた。

「あ、俺バターが良いなー」
「へー、そっかー」
「わー、勢い良くマヨネーズ出すの止めて!せめてハーフにしてよ。最近ホラ、流行りの? 成人病? なっちゃうじゃん」
「そうだね。若桜、外出ないもんね。文句あるなら自分で? やれって? ね!」

 先程列挙していた材料をパンに挟んでいく私の横で彼はついでに入れておいた私のコーヒーを横取りし、口にしている。積み重なる文句と横暴に私は彼の顔を見、にっこりと出来るだけ怪しくない笑みを浮かべた後、包丁を握った。一気に若桜の顔色が変わる。

「こ、こわー、名前ちゃん、怖い、怖い」
「別に三回も言うほどのことじゃない。これからサンドイッチを切ろうかなって、そう思ってるだけだよ?サンドイッチを、ね」
「このサンドイッチを、……食べる人を切ろうかな、とか?」
「まっさかー」
「だっよねー」

 声を上げて笑いながら、まな板すら一刀両断してしまうんじゃないかって自分でも思うほどの音を上げながら、パンを横に二等分する。こんがりとした匂い、若桜に損ねられた機嫌が少しだけ治りつつあった。プレート皿に乗せて、改めて振舞うものでもないからと、特に盛り付けに拘ることなくそれを若桜に押し付けた。コーヒーカップを持っていないほうの彼の手が、半ば強引にそれを受け取る。彼の手にそれが行き渡れば、私のここでの仕事も終わったものだ。こんな機械ばかりの家にいつまでも居たいとは思わない。そう思った私は、早速今まで使用していた調理道具を流し台で洗い始めた。隣で未だ立ちっぱなしの男に捨て台詞と言わんばかりの言葉を掛けながら。

「早く食べないと冷めるよ」
「ん? んー」
「元々そんな美味しくないのが更に美味しくなくなるよ」
「や、それはないっしょー」
「……最初から最低ラインで、それ以上はない、と?」
「何でそうマイナス思考なのかな、名前ちゃんは」

 マイナス思考なんじゃない。腑に落ちないだけだ。ジーンズのポケットに入っている携帯の存在を思い浮かべながら、内心舌打ちの一つでもつきたくなるような表情を浮かべる。洗い物を手早く済ませようと、意識はそちらへ完全に向けられているはずなのにどうしても若桜から早朝に届いたメールの文面が脳裏にちらついて離れずにいた。厄介だ。

「つか」
「何?」
「これさ、全部俺が食べちゃっていいの?」
「何を今更。『朝ご飯作りに来て』だなんて、ご丁寧にも文末にハートまで付けてメールを送ってきた奴が」
「や、あれはさー」
「とにかくそれは君の。そして用件は終わらせた。じゃあ後は帰るだけ。でしょ?」
「そーかもしんないけど」

 ようやくここでサンドイッチに手をつけた若桜の表情はそれでも納得したものではなかった。何が気に喰わないんだ、こいつは。聞いたところで、どうにも彼から真面目な回答が得られるとも限らない。九割、ふざけたものだって、賭けても良い。遊ばれていることぐらい、私にだって理解出来ている。けどどうだろう。
 虚しさばかりで心を埋め尽くす、自分の今の状況は。

「ん。おいしー、名前ちゃんの料理、好き」
「そりゃどうも。後片付けは自分でしなよ」
「帰んの?」
「うん。さっきも言ったでしょ? 後は帰るだけ」
「……っそ」
「あ。でも一つ言い忘れてた」
「なに?」
「私はあんたの家政婦じゃないから」

 唇噛み締めて。虚しい言葉ばかり紡ぐ私の今の姿は。どうだろう。

「名前ちゃん?」
「都合よく振り回されて、勝手に期待して」
「……」

 相手にされないって最初から諦めて食ってかかる私の姿勢は。どうだろう。

「その度に自分に言い聞かせるのが嫌だ。もうやだ。こんな自分にも、嫌だ。だから」

 傷つくことを恐れ、本心を隠し、それでも気付いてもらいたいと願う愚かな私の気持ちは。どうだろう。

「……」
「だから、次は違うところ当たって。私はもう、ここには来れない」

 なんと、醜いことか。
 カタン、と音がして、私は顔を上げた。今の今まで私は自分の顔が俯いていたことにも気付いていなかったみたいだ。そんな風に切羽詰る格好悪さにも呆れて苦笑が零れ落ちそう。若桜は丁度一つ目のサンドイッチを食べ終えたところで、キッチンのシンクに持っていた皿を置いていた。コーヒーを飲む音が聞こえる。何も、言わない。その沈黙が酷く怖い。いつもなら饒舌な若桜の反応がない、そんな異例の状況を打破する策は私の中には存在しなかった。だって、だっていつも若桜はこんな沈黙、作り出したりしないから。と、そこで気が付く。
 いつもの若桜と、違う。九割。今ならふざけた回答は返ってこないって、賭けて、良いのかもしれない。

「若桜」
「なに?」
「どうして、……ううん。何が、気に喰わないの?」
「え?」
「何か、さっきから、私が帰るって言った辺りからずっと腑に落ちないって顔してる」
「そりゃ」

 すっかり冷め切ったコーヒーに口付けながら若桜は何か考え事をするように一度言葉を区切り、黙り込んでしまった。相変わらずのゴーグルで覆われている瞳の奥は、どんな色をしていただろうか。一度だけ見た色を思い出そうにも、酷く昔のことに思えて止めてしまった。口元に宛がわれた手。きちんとタオルで拭ききっていなかったのか、髪から一滴の雫が床に滴り落ちた。ちゃんと拭かないと、風邪抉らせるだろうに。溜息を零したくなるもののこれでは本当に家政婦みたいな発言になってしまうと思って止めておいた。第一、こんな雰囲気の中で言うことでもない。

「そりゃ腑に落ちないに決まってるっしょ」
「え?」
「だってー、俺、朝一から否定されまくってんだもん」
「……どういうこと?」
「その一、」

 ピン、と天井と垂直の角度で立てられた指に私の視線が集まる。彼は続けた。

「名前ちゃんが家政婦だなんて、一言も言ってない」
「行動がそうさせてる」
「そのニ。都合よく振り回してなんかない」
「嘘だ。私振り回されてる! 言い切れる。だってその気ないくせに」
「その三!」

 私の言葉を強く遮断させた、珍しく言葉を荒げる若桜の姿に私は無意識的に肩を上下させた。どうして、そんなにもムキなるような言い方するの。黙った私を見かねた、彼は言葉を続けた。

「勝手に期待、してくれて構わないから。むしろ、俺は期待しっちゃってたり」
「は、」
「だから次も俺は名前ちゃんを呼ぶ。こうして、ご飯作ってもらうのは#name#ちゃんだけで良い」
「……若桜? 熱、ある?」
「うっさいなーもう、こういうところで茶化すの、止めた方がいいと思うよ俺」
「若桜」
「なに?」
「……」

 いつの間にか最後の一切れとなったサンドイッチを頬張る若桜がこちらを一切見ようとしないのは、故意なのだろうか。頬の辺りが、熱を帯びていて、発熱しているのは私の方ではないかと疑いたくなってしまった。それを彼に見られないことが、唯一の救いというべきか。もう一度、若桜と、名前を呼ぶ。こちらを振り向かなくて良い。だけど、返事をして欲しい。そんな小さな願いだった。

「なに、名前ちゃん」
「……っ」

 ゴーグルの奥の瞳の色を、思い出した。初めて会った日か、その次か、綺麗な色だと素直に感想を零した時のことだ。彼は笑ってありがとうと言ってくれた。そんななんでもない言葉、なんでもない表情。いつしか特別になっていたんだ。そしてそれは今、私の隣で私だけのために使っていてくれている。それだけで、嬉しかったのに。いつから人は、私は欲張りになってしまったのだろう。一方的な感情だけでは飽き足らず、相互性を求めてしまう。結果、彼を傷付けたことに気が付いた。私が勝手に自分で傷ついた代償に彼もまた、傷ついていたのだと悟る。

「……なのに。ありがとう」
「んー、ごみん、聞こえなかったー」
「勝手、したのに、ありがとうって言ったの」
「そんなの。俺もじゃん」
「でも」
「でも、やっぱり名前ちゃんの料理が好きだから、勝手させてもらった。もちろんこれからもね」
「……撤回するね」
「何を?」
「次は他当たってっていうやつ。やっぱり指名は私だけにして」
「最初からそのつもりだから安心して」