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「降谷くん?」

 珍しい人が残ってる。
 数学準備室で今まで先生に散々こき使われていた肩が痛い。やっと手伝いから解放された私は自分のクラスの後ろの扉を開いたまま、開口一番にその名前を呼んだ。視界に広がる情景。その中央に彼がいる。けれどこちらには全く気付かない、と言うよりも気付くわけもない。静かに、彼が寝息を立てて、机に顔を埋めていたからだ。問題なのは、その場所。
 何で、私の席なの。
 これは困ったなあ、と苦笑が起こった。降谷くん部活いいのかな。まあ、大丈夫か。でも大丈夫じゃないのは、彼を起こさずどうやって鞄に荷物を詰めるか、だ。彼が覆いかぶさる机の引き出しの中には明日までにやらなくちゃいけない課題とか、教科書とか持ち帰らなきゃいけないものが入っている。
 ええと、どうしよう。静かに後ろ手で教室の扉を閉めて、出来るだけ足音を立てないように自分の席に近付く。彼の、寝息だけが聞こえる。とりあえず机の脇にぶら下げていた鞄を静かに手にした。少しだけ起きた振動に起きるかなと一瞬冷汗が垂れそうになったけど彼がこんなことで起きたりしないことは授業中の様子を見れば一目瞭然だ。「……うーん」

 一人、呟く。彼のお腹のあたりと、机の引き出しとの間には僅かな隙間があるから、そこから何とか課題を取り出せないだろうか。試みようと手を伸ばしたときだった。

「名前……?」
「わっ、起こした!?」
「やっと帰ってきた」
「え、は?」
「待ってた」
「待ってたって、部活は?」
「オフ。試合もうすぐだから」
「あ、そうなんだ」

 腕に顔を埋めていた彼が、少しだけ横を向いてこちらを見る。机の引き出しに手を伸ばそうとしゃがみこんでいた私を、見下ろす黒い光。眠りから覚めたばかりだからか、それは若干虚ろなものだった。言葉の隅々に感じられる寝起きの感情。いつもマイペースだなあ。そんなことを思う。

「それよりもここ、私の席なんだけど」
「知ってるよ」
「じゃあ何で座ってるの」
「驚くかなって」
「驚いた」
「そっか。ごめん」
「え、いや良いけど」
「ねむ……」
「わ、寝る前に課題取らせて課題!」
「やだ」

 は。呆気に取られたような言葉が頭の中を支配する。それはどうやら言葉にも出ていたようで、私を一瞥した降谷くんはやがて隣の席の椅子を強引に引っ張って私の席の椅子、つまり今彼が座っている椅子にぴったりとくっ付けた。どういう意味なのかよく分かっていない私は、事の運びをただ見つめるだけ。
 やがて彼が、ポンっとその空いている椅子を片手で軽く叩いた。

「座れってこと?」
「そういうこと」
「何で」
「帰るの?」
「いや別にどっちでもいいけど」
「じゃ座って」
「……」

 なんだ、この展開。意味分かんない。けどとりあえず断わる理由もなかったし、断わったら断わったで降谷くんの機嫌が悪くなりそうなので指示に従った。隣の席の林くんの、椅子。スカートが椅子の金属部分ちょっと引っ掛かった。それを右手で解れさせながら私は端っこの方にちょん、と座った。降谷くんの方に背を向けて。これはあくまで、精一杯の反抗心だった。だって断わる理由がないとは言え、恥ずかしいじゃん。

「なんでそっち向いてんの」
「気分」
「そ。いいけど」
「……っわ」

 降谷くんの少し不機嫌そうな声を背中越しに聞きながら、私はやがて感じた暖かい感触に小さな声を上げた。ふわりと、いい匂いが漂う。あ、降谷くんの、匂い。かな。後ろを振り返る勇気は、なかった。けどそうしなくても、分かる。私、降谷くんに寄りかかられてる。いつか触ってみたいなって思ってた彼の黒い髪の先端から温度が背中越しに伝わっては私の心臓を刺激してくる。ああもう。こんなに大胆なひとだったっけ。

「何、するの」
「眠いから」
「机で寝ればいいじゃん」
「寝心地悪い」
「私の背中も相当だと思うけど」
「そんなことない」
「え?」
「暖かい」

 「暑いの嫌いな癖に」今言える精一杯の返事だった。素直じゃない。可愛くない。だけど背後で降谷くんが少し、本当に少しだけ笑ったような気がしたから、もうどうでも良くなった。やがて、背中から伝わる彼の温度と鼓動。その心地良さにつられて私も少しの間眠ることにした。



そんなことないと言えることはない