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「そういやお前、昼休み誰かと一緒に裏庭にいたよな?」

 次の時間の教科書を寮に忘れた、という理由でほんの十分間しかない休み時間に隣のクラスから姿を現した沢村君は、何気なく言葉を洩らした。あ、と止める間もなくそれはそれはサラリと流れた言葉。近くで机に伏せて寝ていたはずの降谷の席がガタリ、大きな男を鳴らした。その音に何? と本を読んでいた小湊君が身を乗り出してわたしを見てくる。ああ、何かこう。気まずい。

「見てたの?」
「え、お、おう。四時間目移動教室でよ、その帰り」
「……」
「なんか先輩っぽい男の人と一緒にいる名前、むぐ」
「ストップ!」

 半泣きまでに達しそうな目で必死に訴えて、更に途切れ途切れの言葉で漸く制するけれど、意味はなかったかもしれない。とりあえずそれ以上言ったらきっと怖いことが起きるよ、と言いたかったが多分鈍い沢村君には通じないだろう。
 一方の小湊君と言うと、流石というかなんと言うか。その場の流れを読んで、わたしから顔を背ける。そして、直ぐに横を向いた。男の子二人とわたしの視線が、今度は寝てる振りしてる奴へと一斉に注がれてる。まるで打合せしたみたいにピッタリのタイミングだった。けれど未だに注目の的である降谷君は顔を上げようとはしない。
 と言っても流れを理解してるのはわたしと小湊君だけだろうけど。沢村君はというと、全く意味が分かっていないようでただ単に釣られて視線をそちらに向けただけ、と言った感じだった。

「起きてる、んでしょ。降谷君」
「……はは、怖いなぁ」
「へ? 何でだ? 春っち」
「俺は栄純君の鈍さも怖いけど」
「だね」
「……」
「あ、起きた」

 おはよう、と小湊君が笑ってくれたのが唯一の救いかもしれない。しおりを挟んだ本をパタン、と閉じると静かに席を立った。沢村君が小湊君の名前を呼ぶと、物語の結末を知っているような苦笑いが返って来る。

「栄純君、そろそろ授業始まるよ」
「おわっ、やば! じゃあ名前教科書借りるな!」
「……こっの、トラブルメーカー……!」
「え!? なんだよ、何で怒ってんだよ!」
「あはは」
「煩い! 沢村君のアホ!小湊君も笑うな! 助けろ!」
「……ねぇ」

 ぎくっ、て効果音でも付きそうなくらいで瞬時に自分の動きがストップする。沢村君が出て行った教室の扉へと向けていた目が、ゆっくり、本当にゆっくりと横へ動く。本当に寝てたらいいのに、って思いたいくらいぼうっとした表情の降谷が欠伸を噛み締めながら、こっちを見ていた。
 彼がする表情の種類は、付き合って少し経った頃からだんだんと区別が付くようになっていた。嬉しい時とか悔しい時とか一般的によく見られるものから、甘えたい時、とか、わたしにしか見せないようなものまで様々だけど。今の降谷がしている表情は、わたしの一番苦手なものだと思う。

「二人で裏庭いたって?」

 不機嫌な時の、それ。
 思わず反射的に出た生唾を飲み込む音が、教室の騒々しさとはかけ離れたところで鳴ったようで、もしかしたら彼にも聞こえたかもしれない。そんな心配をよそに、彼はもう一度欠伸を噛み締めてから、細めた目の焦点を再びわたしへと合わせた。

「寝てなかったんだ」
「寝たかったけど、気になった」
「何が?」
「……なんかあの二人と話してるときの方が楽しそうだから」
「はあ」
「しかも内容が内容だし」

 照れたように、自分から合わせていた視線を背けて、机を覗き込む降谷にわたしは呆気に取られた様な気分に陥る。いっつも授業寝てるくせに、こんな時だけ真面目な態度で教科書出そうとしたりしないでよ。いつもと違う行動だから余計に目に付く。酷い時は教科書すら出さないのに。手持ち無沙汰さを、寂しさを、醸し出してるんじゃないかって。無性に心がくすぐったくなった。

「そんな訳ないじゃん」
「そう見えるよ」
「……そう?」
「うん」
「でも降谷にしかわたしは見せない表情だってあるよ」

 そうなの、って小首傾げる仕草だって、可愛くて仕方ない。男の子に可愛いって失礼かな。小湊君だって沢村君だって野球部にしてはどこか幼さが残ってて、時々可愛いなって思うことはあるけど。降谷に抱く感情は、もっと深くてもっと強い。かっこいいし、かわいいし、どうしたらいいか時々分からなくなるほど、つまり愛しいんだ。
 今だってそう。自分を何とか抑えてるけど、不意に抱き締めたくなる衝動だってたくさん湧き上がって来てるんだ。

「気付いてないだろうけど」
「……」
「降谷がわたしにしか見せてないものがあるように、わたしも同じだよ」

 気付いてないだろうけど。わたしは降谷が思っている以上に降谷が好きなんだよ。

「何の話してたの?」
「うん? 二人と?」
「違う。……昼休み」
「ああ、告白、かな」
「……やだ」
「え、やだって。かわいいなあ降谷」
「……」

 不機嫌から一転して拗ねたような顔して見せた降谷にわたしは心の底から湧き上がる笑いを零した。こんなに深いとこから笑える相手だって、世界でたった一人だけなのに。何を心配してるんだろうって、それはわたしにも言えるかもしれないけど。例えば立場が逆だったらきっとわたしだって拗ねたり不機嫌になったりするんだろうな。そう思うと、今降谷が取ってる態度にも怒りや苛立ちは全く起こらない。
 寧ろ嬉しさが募るよ。
 長く感じた休み時間の終わりを告げるチャイムが教室の喧騒を少しだけ小さくさせた。けれど相変わらず騒々しいクラス内でそっと視線を逸らせば小湊君が文庫本を読み耽っている。黒板に対称的に椅子に体を横向けて座っているわたしは足をぶらつかせながら、先生が来るまでこうしてようと、小さな決心を付けた。

「もちろん断わったよ。だってわたしには降谷がいるから」

 内心の気持ちを短く集約させた台詞はやっぱりどこか恥ずかったから、自分だけに聞こえる音量で紡いだ。
 降谷には聞こえたかな?
 先生が教室に入ってくるドアの音を合図にわたしは身体を椅子と平行に戻した。
けれど何となく気に掛かって、少しだけ、本当に少しだけ首を斜め後ろへ向ける。右目のみの視界で捉えた降谷がこちらに気付いて、微かに笑った。多分他の人では判別出来ないと思う。
 わたしだけが区別出来る、彼の微かな表情の変化。


the everyday expression.