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「あちい……」

 言うな、余計暑くなる。だらだらと額を流れる汗を拭いながら、うんざりしたような溜息を付く男を一瞥する。その溜息一つで絶対今地球の温度が上がったと思う。……思うだけで、決して言わないのは男が、私が忘れた頃に同じような指摘してくるのが目に見えているから。人の揚げ足を取ることが、最大の特技。まるでそんな感じ。

「なあ」
「何」
「暑い、から。ぎゅーしていい?」
「意味わかんない」

 こいつは、そういう男だ。
 蝉もさすがにこの暑さには参ってしまっているんじゃないかなと思うほど、辺りは静かだった。太陽の光を充分に受ける肌が、じわりと焼ける音さえも聞こえそうなほど。さて、どうしよう。私はちらり、今度は見つめるように右隣に顔を向けた。さっきまであんなに元気に笑って、生意気なことばっかり言って、こっちの都合も無視しまくりの態度を取っていたのに。大判のタオルを頭から顔がすっぽり隠れる位置に無造作に垂らしまま、奴はほんの僅かな休憩時間を惜しむかのように仮眠を取っていた。

「みーゆーきー……」

 起きねえよ。誰に言うでもなく目を細めながら、そう呟く。些か口が悪かったけど、本音中の本音だった。疲れてる。こんな姿、見せるくらいなら無理しないで素直に笑うの止めればいいのに。
 無理させてるのは、私なのだろう。

「心配すんのは、当たり前のことなんだってば」

 返事が返って来ないのを見越して、勝手な意見を口にする。いっつもそうだ。無理して笑うくらいなら、こんな姿見せないでよ。すっごく、悲しくなる。疲れてんなら、私の前でくらい、その笑顔を削ぎ落とせ。疲れてないならこんな姿見せるな。
 じわり、額から汗がまた頬へと伝っていく。半袖とは言え、通気性の悪いワイシャツはこの季節には適さない。学校指定のそれ、その胸元辺りの布を手に取って少しでも冷気を身体に取り込もうと前後に動かす。肩に寄り掛かってる部分が一段と暑くて堪らない。別に嫌じゃないんだけど、夏ってこういうことがあるから少しウザったい。早く冬が来ればいいのに。そしたら私だって寒いからという言い訳で少しだけ、素直になれる。と、隣にいる男の顔が、少し動いた。

「絶景」
「……起きてるんならそう言ってください」
「あ。扇ぐの止めんなよ。絶景ポイント」
「ふざけんなエロメガネ」

 ワイシャツの生地を離そうとした私の手に御幸の手が重なる。じんわりと湿気を伴ったそれに、鬱陶しいなんて感情を持たないのは、私もつくづく重症ってことなのかな。

「いいね、こう……ワイシャツの間から垣間見る女の色気」
「うわ。その言い方、危ない」
「これだから夏ってたまんねえよ」
「通報していい?」

 木陰になっていて直射日光が当たらないこの場所でも夏の温度は容赦なく私達を蝕む。顔に掛かっていたタオルがいつの間にか奴の首元に巻かれていたため、またあの笑顔が視界に入り込む。疲れてる、癖に。

「ねえ御幸」
「んだよ。お、そろそろ休憩終わりだな」
「御幸」
「……名前?」

 不審そうな奴の声に表情が歪んだ。それを見られたくなくて、顔を背けて、言葉を探す。こんな暑い日にまで野球して、ボロボロになるまで練習して、それで。それでアンタ何がしたいの。
 へりくだった考えだと自分でもほとほと思う。夢があるから、熱中してることだから、楽しいから。今まで御幸の口からは改まって聞いたことはないけど、理由なんてたくさん存在してる。でもさっき私の隣で私の肩に寄りかかって、惜しむように仮眠を取るその姿が脳裏にこびり付いて離れなかった。野球やめてとかそういうこと言ってるんじゃないんだよ。決心したように私は目の前で不思議そうに首を傾げる男をまっすぐ、見つめた。

「せめて、私の前で強がんの止めて」
「何言ってんの?」
「そういう愛想笑いとかも要らないから」
「……」
「心配しちゃうのは、その、……当たり前のことだから。そんなのお構い無しにもっと、」

 頼っていいんだよ。そう続けて、御幸の返事を待った。もしかしたら機嫌を損ねて返事を貰えない可能性も考えた。けれど御幸は一瞬驚いたような表情を浮かべた後、すぐ声を出して笑い始めた。奴特有の豪快な笑い。なんなの、と言いたかったけど、どうも上手く言葉に出来ない。ああ、暑い。
 思い出したように蝉が、鳴き始めた。ミンミンゼミだったっけ。更に夏らしくなったな。そう思うと、体感温度も若干上昇したような気分になって少しげんなり。一頻り存分に笑った御幸は首元に巻いていたタオルを右手に持つと、勢いよくそれを振り上げて、

「あだっ」

 私の頭を叩いた。遠心力、? の強さを実感する。

「バーカ」
「はあ?」
「男はそれでも頼らねえ生き物なんだよ」
「何それ」
「俺のポリシー?」
「バカじゃないの」
「はっはっは、バカにバカ言われちまったな」

 再び首にタオルを持っていった御幸はやがて、木の幹を支えに立ち上がった。本格的に休憩時間終了が迫ってきているのだろう。座り込む私が、見上げたその先。枝を広げる青々しい木々の隙間から、夏の光が目を刺激して来て思わず私は目を細めた。きらきら光るその世界の中央に御幸がいる。些かさっきに比べて、笑みが無理を感じさせないものだと思った。

「……つーかお前が思ってるほどに俺は結構、名前を頼ってる」
「え、うそだ」
「ホントホント。さっきだってお前が絶景見してくれたお陰で回復したもんね」
「……やっぱ通報する。監督さんに」
「ちょ、それはマジ勘弁!」

 手元に置いていたペットボトルのジュースは汗だくになっていた。それを持った瞬間に手が少しべたついたけどこの際もう気にしなかった。ここから少し離れた場所にある学校の時計を一瞥した御幸はじゃあ俺戻るわ、と現実に引き戻されるような言葉をぼんやりとした表情で羅列した。その言葉に感情が籠もっていなさ過ぎて、心配どころか逆に面白さを覚える。『頼ってる』っていうのはあながち嘘でもないって、ちょっと自惚れてもいいのかな。

「無理しないでよ」
「誰に言ってんだ誰に」
「人一倍強がりの癖に笑顔を絶やさない最近注目されてるキャッチャーに」
「はっはっは、練習終わったら覚えてろよ」
「ごめんもう忘れるから」
「恋人との束の間の時間を一瞬で忘れるなんて酷ぇ奴だよ」
「……」
「ま、アレだ」
「アレ? どれ」

 少し考えたように、御幸は頬を掻く。どうでもいいけど、アンタ本当にそろそろ戻った方がいいんじゃないの。そう言おうとしたときだ。御幸が目の前に再びしゃがみ込み、そっと私の唇を奪ったのは。外、ここ外です、よー。目の前の意地悪い笑みが酷く憎たらしい。くそう、なんだこの余裕綽々さは。むかつくから持っていたペットボトルで殴ってやろうかと思ったけどさすがに痛いかなって思って止めた。つくづく私は、御幸に弱い。

「悪ぃ、また勝手に回復させてもらったわ」
「あ、そう。んじゃ頑張ってらっしゃい」
「冷てぇなぁ」
「丁度いいんじゃない。夏だし」
「っは、それもそうだな。じゃ、また練習終わった後な」
「はいはい。またねー」
「名前」

 ん、今度はなんですか。立ち上がった御幸に続いて、私も木々に寄りかかっていた背中を離し、立ち上がる。スカートの砂を両手で払いながら、前かがみになっていた姿勢を御幸に呼ばれたことで正す。と、やっぱりキラキラした夏の光の中心に、奴がいた。似合い過ぎだってば。悔しいじゃん。

「お前色々俺のこと考えてくれてるみてーだけど」
「は、自意識カジョー」
「何も考えずにお前は俺のことだけ見てろよ」
「……」
「それだけで充分」

 何が、それだけで充分、だ。キザ! 叫ぶこともままならない程に顔を熱くした私に、意地悪い笑みを浮かべたその男は背を向けてグラウンドへと戻っていった。頬に、手を宛てる。ジュースを持っていた方の手だったためか中途半端に湿っていて、少し気持ち悪かった。目を細めて野球部が部活を行うグラウンドの方向を見やる。耳をすませば、蝉が雰囲気を読んでくれたみたいにぴたりと鳴くのを我慢してくれた。掛け声が、微かに聞こえる。
 眩しい夏の光。その中心に、キミ。キラキラ、夏の音。心地良い風が吹いた。