×長編 | ナノ
コンコン、扉を叩く音は自分が発しているはずなのにどこか遠いところから聞こえてくるようだった。はーい、扉の向こう側からくぐもった女性の声が応じる。それをきっかけに目の前にある扉をスライドさせた。ガラガラという地響きのようなその音が嫌と言うほど頭に響く。
「失礼しまーす……」
驚くほどに弱々しい声だった。視界に入り込んだ女性が滑らせていたペンを止め、こちらに顔を向ける。縁の細い眼鏡の奥の凛とした瞳と目が合った。
「どうしたの?」
薄く細められた、瞳。綺麗な黒色に吸い込まれそうで失い掛けた声を、無理やり搾り出した。
「あ……えと、ちょっと具合が」 「ああそうね」 「え?」 「具合が悪いからここに来るんだものね」
当たり前のことだと笑った保健医の先生はやがて私に、部屋の中へ入るよう促した。後ろ手で閉めた扉の音が、無言の室内に浮かんですぐ消える。保健室に体調不良を理由に訪れたのは初めてだった。健康診断などでやむを得ず入ることはあったものの、そこは健康を取り柄にしているだけあってそれ以外の理由で訪れたことはない。ここへ来るのでさえ場所があやふやだと迷いそうになったくらいだ。足を踏み入れた先、病院程ではないがどこか薬品くさい室内の香りに顔をしかめる。
「とりあえず熱計ろうか」 「あ、……はい」 「ん、顔色も悪いわね」 「そうですか?」 「ビミョウに」
ビミョウ。覚えたての単語を使うように発せられたそのアクセントに首を傾げる。無邪気に笑った先生が白衣のポケットに片手を入れながら、口を開いた。
「さっき来た男の子が言ってたから。今の子の言葉は難しいわね」 「……はあ」 「曖昧な言い表し。遠回りに言うことで直接的な競争を避ける。平和な今の時代を見事に象徴してる」 「あの」 「ああいけない。はい、これ体温計」
それと、と続けながら先生が机の下で組んでいた足を逆に変えた、ような気がした。透き通ってなどいない、一般的な事務用デスクだったから憶測に過ぎないけれど。差し出された体温計をケースから取り出し、脇に差し込む。デジタル部分を見ると、35.5から36.1へと、数字を飛ばしながら数値を上げていた。
「それと?」 「奥」
くいっと先生の指が奥を指した。眼鏡の奥の視線が私から外されると同時に釣られるよう私もそちらへ目を向けた。
「寝てる子いるから、なるべく静かにね」 「あ、はい」 「体温計は?」 「えーと、まだです」 「まだ?かなりの高熱なのかもね」 「それは……あ、」
ピピッ。デジタル電子音が鳴り、取り出した体温計。表示された数字にめまいを覚えた。
「どう?」 「思うに」 「ん?」 「体温計で体温を計った時点で風邪だって認めたようなものですよね」 「あー、あはは。そうかもね」
快活な笑い声。奥で寝てる人への配慮なのか、控えめではあるけれど存在感のあるそれに大人と子供の違いを垣間見た気がした。私ではこうもいかない。いつか何年後か、大人になったらこんな雰囲気のある笑い方が出来るようになるのだろうか。
「じゃあ電車で帰るのは難しいかな」 「大丈夫だと思います、うーん……きっと」 「倒れられても私が後味悪いからなあ。ご両親は?」 「母がそういえば、今日の仕事は昼までだって」
言いながら、壁に掛けられた時計を見る。午前九時前。昼が来るにはあと数時間の空白があった。
「じゃあ連絡してみたらどうかしら」 「え?」 「昼間までなら、ベッド貸してあげる」 「先生のベッド?」 「そう、ここは私の領域だから」
おどけたように笑う女性に好感を抱く。そういえばクラスメートの話にあったな、と不意に記憶を思い出す。昼休みの保健室はやけに人が多くて、あからさまに元気だとわかる人が出入りし、一種の溜まり場になっていると。その場を担当している人が目の前の女性なら、その話も素直に頷くことが出来る。きっと先生の魅力に惹かれた人達が足を運んでいるのだろう。これは推測に過ぎないけれど、十中八九、男子が多いに違いない。
「じゃあ、許可証が必要ですよね?」 「そう。はい」
差し出されたのは帳簿。きっとこれは『元気じゃない人』専用の記録帳なのだろう。同じように差し出されたペンを力なく走らせた私は、先生の指示の通りに空いていると言われたベッドのカーテンに手を掛ける。自分が入れるか入れないかのスペース分だけ捲った先には思いがけない光景が広がっていた。
「……」
空だと言われた、場所には先客がいた。ぺちゃんこだと思っていた布団にある凹凸。ゆっくりと視線を下へ向けていく。
時が、止まったような気がした。 伏せられた瞳。知らない人。小さくゆっくり、上下する肩を眺めながらただただ私は釘を打ちつけられたようにその姿から目を離せずにいた。
(思えばこれが全ての始まりだったのだと、未来の私は考えているのだろう)
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