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恋に落ちるのに、時間は要らない。そんなお話。

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 取り柄と言えば唯一言えたことが健康だった。それがどうだろう。梅雨入り間近の、むしむしとした湿度。ぐんぐん上がる気温。それに比べて私の体は対照的な程、寒さを訴えていた。

「おはよう、あれ?具合悪い?」

 隣の席の小湊君が気さくに話し掛けてくれるようになったのはつい最近のことだ。特に、何があった訳でもない。ただ運とその時の担任の気分で決められた席順がそうした結果を招いた。それだけのこと。軽く上げられた彼の手に応じるべく、私も片手を上げた。その間も私の心身は意味の分からない寒さに悩まされる。はあっと盛大な溜息をついたところで、見かねたかのようにクラスメートの一人が私に話し掛けて来た。

「おはよ、名前。風邪?」
「あ、おはよー。うーん。何だろね……朝から何か体が寒くて」
「寒い?この蒸し暑い季節に?」
「うん」
「それ、風邪だろ」

 頬杖をつきながら、小湊君が結論を言い放つ。的確だなあ。でも、確かにそうかも。多少のしんどさはあるものの頭は至って元気だったからと学校に来たけれど、やっぱりここは大事を取って休むべきだっただろうか。

「……風邪の引き始め」
「え?」

 一限の科目である英語の教科書を机に置きながら、小湊君が言った言葉。よく意味が分からず聞き返すと同時に隣に立っていたクラスメートが納得したようにその後を引き継ぎ、話し始めた。

「ほら、風邪って引き始めは寒くなるんだよ」
「そーなの?」
「そう。で、峠越えると今度は体温を逃がそうと熱くなるんだって」
「げ」
「つまり名前はまだ峠を越してない訳だ」
「うっそ」
「ほんとほんと。保健室行って早退届け出してきたら?」

 冗談じゃない。時計を見れば朝のHRまであと少しという時間だ。学校来て早々に帰る手続きをするなんて、これじゃあ今日私が学校に来た努力と意味なんて皆無だったんじゃないだろうか。うなだれるように自分の机に座り込み、顔を伏せた。と、いよいよ心配が募ったのか、戸惑いにも似た声色でクラスメートが言葉を紡ぐ。

「ねえ、大丈夫?ほんと、行きなよー。先生には言っておくし」
「私何のため学校来たんだろ……」
「うちらの心配を一身に仰ぐため?」
「最低な奴だね私」
「あはは」
「苗字、立てないなら俺連れてくけど?」

 隣の席に座る男の声に、私は慌てて立ち上がる。そんな助けは要りません!大丈夫です!……まるでそう言い表すかのような私の素早い起立に視界の端にいた男はくすりと笑った。

「まだそれぐらい元気あるんなら大丈夫だね」
「小湊君……あのね」
「行ってらっしゃい」
「あーあ、やだなあ。私、元気だけが取り柄なのに」
「はいはい。いーから名前、行くよ!」
「わ、榎本、いいよ。ひとりで行ける」
「本当にひとりで大丈夫?」
「うん」

 心配そうなクラスメート、榎本と対照的に全く心配する素振りを見せない小湊君に背を向け、私は先程通った道を引き返すように足を進めた。途中、机の横に掛けていた鞄の存在を忘れていたことに思い出し慌てて引き返す。自分が思っている以上に思考力が低下していることで風邪だという証拠をまざまざと自分自身に思い知らせていた。

「忘れ物?」
「うん。鞄。ほんとに頭働かないみたい」
「へえ。本当に風邪なんだ」
「は?」
「何とかは風邪引かないって」
「天才は?」
「はい行ってらっしゃい」
「流した!」

 余裕綽々な笑みが憎たらしいと思いつつも、私はそれ以上口を開くことは止めた。いい加減頭がふらふらしてきて、これは早く保健室に行かなきゃという結論に至ったせいもある。力なく再び歩き出した。まだ生徒たちで賑わう廊下に出た時何となく、教室の扉を見上げた。

 三年のクラスだという確かな証明であるプラスチックのプレート。どうしてか、苛立ちがこみ上げてきた。