×長編 | ナノ


朝一番に家を出て、学校へ向かう。
意気込みは充分だった。
あとは空回りしないよう、慎重に作品を完成へ近づけていくだけ。
宿直の先生に美術室を使用する断りを入れて、私は階段を昇った。
開錠して、入ったひんやりとする室内。
もちろん暖房器具なんて今日は休日だから入るわけもなくて。
仕方なくジャージに着替えた私は、すぐに絵と向かい合った。
体中の神経を集中させて、キャンバスを見つめる。
ふと見上げたとき、時計は午後の時間を差していた。
ああ、もうとっくに部活は始まっているだろうな。
今日も頑張ってください、矢島さん。
そして、頑張れ、自分。

- - -

出来た。
誰に告げるでもなく、そう呟いた。
もちろん手直しはこれから何度もしていくつもりだけれど、大方自分の表したい表現は詰めることが出来た。
寒さなんて忘れるほどに熱中していたせいか、今頃体がぶるりと震える。
窓の外を見やれば、綺麗だと言いたくなるほどの夕日が、どんどんと沈んでいくのが見えた。
あの日のような夕日。
だけどここはあの場所じゃない。
だから私は大丈夫。
握り締めていた酷使されてぼろぼろになった筆を見下ろして、一つ息をつく。

私は大丈夫。
後は思いを告げるだけ。

水道から流れる水で何度も油の染み付いた手を洗った。
完全には綺麗にならないかもしれない、けれど少しでも綺麗にしておきたかった。
そして、油絵の具で汚れたジャージから朝着替えたままの制服に袖を通す。
あとは、彼を待つだけ。
そう思ったとき、昨日よりも随分早い時間にひとつこちらに近付いてくる足音に気付いた。
誰もいない校舎の中に、響くその音。
私だけのために、向けられたその旋律のような音に耳を澄ましながら聞いていると、それはやがてぴたりと止んだ。

深呼吸をする。
目を閉じる。
早くなる鼓動を、何とか抑えながら私は、彼が来るのを待った。

がらりと昨日よりも些か遠慮がちに扉が開かれた。
脳裏に描いて止まない人。
矢島さんが、そっと顔を覗かせた。

「苗字さん」

私を呼ぶ、声。
細めていた目を開いて、私は出来る限り笑顔を浮かべて呼応するように彼の名前を呼んだ。
矢島さん、と。

「部活、お疲れ様です」
「ああ」
「……その、えーと」
「完成したの?」
「い、一応」

改めて聞かれると不安になる。
けれど自分の力は精一杯出し切ったつもりだった。
バスケや体育系とは違って、勝ち負けがない分やっぱり不安は拭いきれない。
そっと近付く彼の足音に顔を上げた私は、椅子から立ち上がった。
彼の、傍に歩み寄る。
そして、出来る限りの勇気を振り搾って、矢島さんの手を取った。

「感想は、要らないです」
「何それ」
「ただ、私は一番最初に矢島さんに完成品を見てもらいたかっただけ」
「……そう」
「自己満足でごめんなさい。でも、気持ちは込めたつもりです。だから例え酷くても笑わないでくださいね」
「しないよ、そんなこと」
「ありがとうございます」

握った手を自分の方へ引く。
釣られるように歩き出した矢島さんの足音。
心臓の音と連動しているようなそれに、私の中で安心感が生まれた。
きっと大丈夫。
気持ちは伝わる。

とうとう、キャンバスの横に来た。
そこで立ち止まった私に矢島さんが訝しそうな目を向ける。
視線が交錯した。

「矢島さんへの気持ち」
「え?」
「……文化祭の遠いステージ、そこであなたを見たときから、ずっと」
「……」
「私のためだけに歌って、欲しいって、ずっと、思ってました」
「……」

沈黙に徹したような彼の表情を見ることは出来ない。
そこまでの勇気は今の私にはなかった。
この関係が壊れるかもしれないってそう思った時に浮かび上がったのはステージで歌う矢島さんの姿。
そして何よりそこから始まった、微妙な距離の私達。
何度も頭を撫でてくれたその腕、何度も抱きしめてくれたその胸、何度も励ます言葉をくれたその口、何よりも矢島さんという存在。
それが私にとって、とても大切だということ。

それが伝われば、良い。

「……凄い」

一歩踏み出して、キャンバスを覗き込んだ矢島さんが、ぽつりと口にした。
糸を縫われたみたいにキャンバスに視線を向ける彼の目が、やがて私を捉える。
そして、つないでいた手をぐっと引き寄せた。

もう何度目になるだろうか。
数えようとしたけれど、頭がうまく回らなくて結局答えは出ないまま。
こうして彼に抱きしめられるのは、何度されたって慣れない。
すっかり治った後頭部に手を固定した矢島さんが、一つ感嘆の息をもらした。
矢島さん、と呼んだ私を体を再び強く抱きしめる。

「ごめん」
「え?」
「違うんだ、その、うまく言葉に出来ない」
「……」
「……嬉しい、んだ。こうして俺を、描いてくれた」
「矢島さ」
「その感情がストレートに伝わってきて、何ていうか」

彼らしくない、と思った。
いつも感情をうまく表現している彼らしからぬ言い草。
うまく言葉に出来ないんだけどでも、と続けた矢島さんがそっと私の耳元で続きを呟いた。
幸せだ、って。ありがとうって。

「や、しま、さ」

喉が突かれたように言葉がうまく出てこない。
じわりと瞳を覆う涙が、嬉しいせいだと分かって、更に込み上げてきた。
伝わった、んだ。
そして、彼はそれを受け入れてくれた。
ありがとうって言ってくれた。
これまで毎日のように作業していた日々と、そして、募る思いに潰されそうになっていた心が救われたような気がした。
救ってくれたのは、他ならない、矢島さんの声。
思えば始まりから私は彼の声に、惹かれそして導かれていたのかもしれない。
頭を撫でる一定間隔のリズムと、透き通るような声で紡ぐ言葉。
そのどれもが愛しい。
そう思わせるものだった。

「矢島さ、ん」
「ん?」
「私、もうずっと恋、出来ない……って思ってたんです」
「……ああ」
「けど、それを矢島さんが変えて、……変えてくれたんです」

涙で声が掠れ、震える。
たどたどしい私の言葉を、急かさないでああ、と一つ頷いて受け入れて、理解してくれる。
昨日の夜抑えかけていたリミッターを制御する必要はもう、ないと思った。
伝えるんだ。
自分の気持ちを。

「恋するとこんなに世界は変わるんだって、そういうことを矢島さんが教えてくれました」
「そんな大役、買った覚えはないけど、ね」
「それでも、教えてくれたんです」
「俺には勿体ない言葉だな」
「私、……そんな、世界を変えてくれた矢島さんが」
「ストップ」

体が急に離される。
え、と思った時にはそっと視界が伏せられた。
覆ったのは矢島さんの手。
そして、戸惑う私の唇に感じる熱。
顔中の血という血が、沸騰するかと思うくらいの熱だった。
熱が覚めやらぬ内にゆっくりと覆われていた視界が開け放たれる。
口元を抑えながら、私は矢島さんの顔を直視出来ずにいた。
と、一つ彼が息を吐く。

「矢島さん、?」
「ごめん、ちょっと順番間違えたかな」
「え、」
「うん。ここからは俺に言わせて」
「……」
「俺さ、文化祭で歌うの嫌だったんだ」
「え、そ、そうなんですか」
「そう。当日になってボーカルやる佐伯が風邪引いて、結果代役。本当はバンドにも参入するつもりなかった」
「……」
「けど」
「けど、?」

少し思案するような矢島さんの顔を、ようやく見上げることが出来た。
視線が、合っていないからからもしれない。
どこか遠くを見るような目で矢島さんは考えた後に、ぽつりと続ける。

「結果的に、良かったんだと思う」
「……どうして」
「どうして?そうだな、……何かに向かってひたすら頑張り抜く人に会えたから」
「……矢島さ」
「黙って」

そっと唇に宛がわれた指先。
先日のことを彷彿とさせるその仕草にどきりとしながら私は矢島さんと半ば強制的に目を合わせることとなった。
釘を打ち付けられたみたいに、そこから離れることが出来ない。
でももう、離れようとも思わなかった。

「自分が女だってこと自覚しなくて最初はただ鈍感な奴って、思っただけ」
「……」
「けど、その内どうしてか放って置けなくて」

ふ、と小さく笑う。
矢島さんの笑み。
これ以上ないくらい、の、涙が溢れ出た。

「怖いのは得意な癖に、変なとこ脆くて。支えたいって、柄にもなく思った。そんな風に思わせる、」

そっと、再び抱きしめられる。
涙で学生服汚れますよって言いたかったのに、うまく言葉に出来ずにいる私の耳元で彼が言葉の続きを紡いだ。

「名前が、好きだ」

17