×長編 | ナノ
「集中するのもいいけど、少しは自覚したら?」
そう切り出したのは、片付けも終え、美術室の電気を全て切って、鍵を施錠した時だった。 真っ暗で何も見えない校舎を肩を並べて歩く、矢島さんが少しイライラしたような口振りで続ける。 女の子なんだから、と。 それがどうしてだろう。 怒られているはずなのに、くすぐったい感情に包まれた。 携帯のライトで足元を照らしながら進む校舎内はシンと静まり返っていて、普通の怖がりの女の子なら泣いてしまうんじゃないかと思うほどの静けさ。 あいにく耐性のついてしまった私にはそれ以上に足元覚束ない暗さの方が厄介だと思った。 その間にも矢島さんは自分のペースで歩いていってしまう。 怒ってる、のかな。 いつもなら私の歩調に合わせてくれるのに。
「矢島さん?」 「何」 「心配してくれて、その、ありがとうございます。でも、大丈夫です」 「大丈夫じゃないだろう」 「ホラーは好きですけど」 「そっちの心配はしてない」 「え?」 「変質者」 「手が油くさい女を襲う物好きなんていませんよ」 「……」 「矢島さーん?」
視力が少し悪い私はうまく彼の姿を捉えきれない。 もしかしたらもう先へ行ってしまったのかと思って慌てて足を早める。 と、腕を掴まれた。 見上げると先程まで見失っていた彼の姿。 はあっと一つ、溜息を付かれた。
「じゃあ俺は物好きかな」 「え」 「転びそうだから、ちゃんと掴まってて」 「あ、良いんですか?」 「悪くはない」 「……意地悪ですね」
そう答えた私をふっと笑う矢島さんの顔がよく見れないこの暗闇を少しだけ恨んだ。 一つ一つ、彼の表情を記憶していたいのに、邪魔だよ。 こんな時間帯に帰る自分が悪いのだろうけど。 恐る恐る回した矢島さんの腕はいつも鍛えてるためか思っていた以上にがっしりしていると思った。 男の人にしては細いんだろうけど、でも。 適度に鍛えられているっていうか、なんていうか。 この状況を恥ずかしいなんて思いながらもどこか嬉しく感じている自分の顔は、今日最高潮に熱かった。
「そういえば久しぶりですね」 「……そうだね」 「バスケ部、調子どうですか」 「相変わらず。でも寂しがってたよ」 「えっ」 「来栖とか、佐伯とか。ぱったり来なくなったから何かあったんじゃないかって」 「あ、……」 「ああ、俺が説明しておいたから大丈夫。今集中して作品を作ってるって」 「……ありがとうございます」 「いや」
校舎を出て、すっかり冬らしくなってしまった外の世界に出る。 白い息が絶えず私達の周りを飛んでいた。 回された腕も、視界が良好になったことだし外そうかと試みたけれど別段、何も言われなかったのでそのままにしておいた。
出来れば帰るまで、こうしていたい。 それを願っているのは私だけじゃないと良いのに。
「……じゃない」 「え、?」
考え事をしていたせいか、何か言った矢島さんの言葉をうまく聞き取ることが出来なかった。 夜の闇の下、同じ髪色した彼の方を見上げる。 思っていた以上に至近距離で、少しだけ驚いた。
「寂しがってたのは、あいつらだけじゃないって言ったんだよ」 「……矢島さん」 「そういえば、さ」 「え?はい」 「どうして、俺を知ってたの」
何の話だろうか。 と、そこで一つの記憶に行き着く。 初めて会話を交わしたあの日と同じ質問だと気付いた。 初対面であるはずなのに自分の名前を知っていた女。 それを不審に思うのも不思議じゃないな、と納得したところで、一つ間を置いてから話を切り出す。
「知ってたんです。矢島さんのこと」 「どうして?」 「……あの」 「……」 「文化祭で」 「そう」 「でも矢島さん。そういうの苦手そうだなって思ったから、言わなかったんです」 「そういうのって」 「文化祭効果で矢島さんを知って。で、その、ミーハーなファンに思われるかなって」 「別に俺はそうは思わないけど」 「そうなんですか?」 「他の人は知らないよ。でも苗字さんは違うと思う」
腕に回した手を、一層強く絡めたい衝動に駆られた。 少なくとも、私という個人を、否定的に思っていなかったこと。 理解してくれていること。 嬉し、い。 ぎゅっと、彼の肘の内側を握って私は軽く唇を噛み締める。 そうしなくちゃ、どうしても言ってしまいそうだった。
こんなにも理解してくれて、 こんなにも優しくてくれる彼に。 自分の気持ちを。
「苗字さん……?」
名前を呼ばないで。 初めて否定したくなった。 こんな不安定な時に瞳を覗き込まれて、その口で私を呼ぶなんて。 卑怯だと思った。
「どうしたの」 「……矢島さ、」
どうしようもなく溢れる感情。 好きで、好きで、どうしても伝えたくて。 でも、伝えるのが怖い。 何か、後ろ盾がないと私にはこの思いを口にする勇気なんて持てないと思った。
「……あと、一日」 「え?」 「明日休日なんですけど、学校で作業してます」 「そう」 「……その、部活が終わったら、来てくれませんか」 「美術室に?」 「はい。明日には、完成出来そうなん、で」 「ああ、分かった」
矢継ぎ早に取り付けた約束。 疑うことも、断ることもしないで、矢島さんは快く頷いてくれた。 その笑みを見て、心を落ち着かせる。
好き。 怖い。
「苗字さん」 「は、い」 「あまり無理しないで。でも、……納得行くまで頑張れ」
でも、伝えたい。
ぎゅっと握り締めた矢島さんの腕の暖かさを実感しながら、私は決心した。 絵が完成したら、一番に伝えよう。
「はい!」
あなたが好きです、と。
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