×長編 | ナノ
着信を告げる音が部屋に響き渡る。 試験勉強をしていた手を止めて、私は棚に乗せていた携帯のサブディスプレイを見つめた。 『着信:矢島さん』 綻ぶ顔を何とか抑えながら、私は出来るだけ丁寧に受話ボタンを押した。
「もしもし、矢島さん?」
弾む声は、どうにも抑えられそうにない。
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矢島さんに名前と、呼ばれた日。 その日からバスケ部に顔は出していない。 出来上がった下書きをどうしても年内に完成させたかったからだ。 手に残る油臭さや、触感を無視して私は放課後、美術室に篭る日々が続いている。 冬場だから乾く心配はなくとも、やっぱり気になってしまうため、放課後向かう足はどうしても美術部になってしまう。 体育館へ行きたいのは山々だったけれどこればかりは仕方がない。 丁度年が明けてから開催されるコンクールにも出展したいと思っていたところだし、と顧問の先生と話し合った結果やっぱり作品は年内に完成させる目処でいくことになった。 となると、どうしても考えてしまうのは矢島さんのこと。 あれ以来、頻繁に電話やメールのやり取りはしているものの、なかなか会う機会に恵まれなかった。 注意深く見る校舎内でも彼に遭遇することはないし、見かけることもない。 無意識に零した溜息に、沙耶香が笑った。
「辛気臭いわね」 「手が油くさいのは落ちないからね」 「そうじゃないわよ」 「あー、うん」 「またうまく行ってないの?」 「うまく行くとかそういう問題じゃないから」 「ふうん。ま、頑張れば」 「オウエンドウモー」 「ああそれと」
次が移動教室で、沙耶香とは違う教室になるため、別々の方向へ歩く。 去り際、俺様ならぬ沙耶香様な発言には苦笑しか出なかった。 それでも嫌いになれないから、沙耶香ってすごい。 いや私の心が広いのかな。自意識過剰。
「もしうまく行ったら沙耶香に言いなさいよ」
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放課後、いつも通り美術室に向かう道のりで日向君に遭遇した。 どちらともなく視線を交わし、小さく挨拶を済ます。 それだけで終わるかと思っていた。
「あ、苗字」 「え」
それなのに日向君から聞こえた引止めの言葉。 足を止めた私と向かい合うように日向君が同じく足を止める。 何か用事なのだろうかと考える同時に、彼が口を開いた。
「お前って絵うまいんだな」 「え、もしかして……み、見た?」 「さっきの授業、美術だったから」 「……面倒がらずにちゃんと片付ければ良かった」 「クラスのやつらもびっくりしてたぜ。すげーって」 「別に、そんなことないよ」 「謙遜すんな」
小さく笑う。 いつも不器用にしか微笑まないくせに。 どうしてこういうときだけ、あの人に見せるような笑い方をするんだろう。 まるで応援してくれているみたいだ。 私と、
「あの人って、あれだろ?バスケ部の」 「……うん」 「うまくいくと良いな」 「え、」 「バレバレ。あの絵見たら誰でも気付くぜ」 「そう、?」 「ああ」 「頑張れよ」 「……お互いね」
私の返答に日向君が驚いたような表情に顔色を変えた。 それを見て今度はこっちが笑う番だと言わんばかりに口元を緩める。
「俺もかよ」 「お互い様ってこと」 「……」 「頑張れ、日向君」 「ん、サンキュ。お前もな」
ぽんっと軽く肩を叩いた後、日向君はそのまま私を通り過ぎる。 その背中を暫く見つめていたけれど、塗りかけの絵を思い出した私は少し早足で美術室へと向かった。 思い起こす、職員室付近の廊下での日向君。 片思いの相手に見せる表情の片鱗を見ることが出来た私は、一層やる気を湧き上がらせた。 完成まで、あともう少し。
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次の日は休日だから、と私はいつもより遅くまで美術室に残っていた。 いつもなら最後まで付き合ってくれる顧問の先生も、夜八時を過ぎた時点で申し訳なさそうに帰宅してしまっている。 完璧、一人の空間でひたすらただ、一枚のキャンバスに色を塗りこんでいく。 時には削って、時には上から塗りなおして。 試行錯誤を施しながら、ようやく完成間近となったのは夜も更けた午後十一時のことだった。 いつも十時を過ぎた時点で注意しに来てくれた宿直の先生も今日はどうやら来ていない。 それとも集中してて、来たことを覚えていないだけだろうか。 ふうっと一息を付く。 キリも良いし、今日はここまでにしよう。 そんなことを思いながら筆をふき取ろうとした時だった。
カタン、と小さくどこかで音がする。 思わずびくりとしてしまった肩。 大袈裟だなと自分で自分を笑う。 ホラー映画の見過ぎだろうか。 そんなことを思っていると、再び、小さな音。 やがてこちらに着実に近付く足音に気付いた。 そういえば、こないだ見た映画は学校物で、しかも美術室から悲劇が始まるようなものだったな、なんて、どうしてこういう時に限って思い出してしまうのだろう。 首を小さく振り、必死にその記憶を掻き消す。 それでもこちらに向かって歩いてくる足音は決して消えることがなかった。
ぴたりとそれが止む。 同時に勢いよく開かれた美術室の扉。 思わず言葉にならない声を、上げそうになった。
けれど。
「……やっぱり」 「あ、や、矢島さ」 「グラウンドからここの明かりが点いてるのを見かけて。もしかしてとは思ったけど」 「……」 「こういうありきたりな状況じゃ悲鳴は上げないんだね」 「あの、」 「ん?」 「ど、どうしたんですか?」 「……」
矢島さんが後ろ手で室内の扉を閉めて、こちらに歩み寄る。 彼のいる場所からはキャンバスは見えないけれど、まだ完成とは言えないそれを見せるのは些か恥ずかしかった。
「す、」 「す?」 「ストップ、で。まだ完成、してないんです」 「それで」 「え?」 「いつまでやるつもり?もう十一時過ぎたけど」
少し怒気の含んだ声が、そう告げる。 慌てて、もう帰りますと答える私を信用していないのか、じとりとした眼差しを向けられた。 けれど私の意見を受け取ってくれたのか、それ以上はこちらに近付いてこない。 焦りながらも筆を置いて、後始末を終えるまで矢島さんは何も話してはくれなかった。 でも、帰る素振りも見せない。 少し、期待してしまう心に鞭を打つ。 そんなほわんとしてる場合じゃないだろう、と。
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