×長編 | ナノ


開口一番、ひっ、と息の詰まる声を上げた。
同時に涙も瞬間的に引っ込んでしまう。
彼の手が、何往復と私の頭を撫でている。
や、じまさん。
弱々しく呟いた私の耳に入り込んだのは彼の呆れたような溜息だった。

「今度ホラー映画でもプレゼントするよ」
「……すみません」
「それと」
「はい」
「今日来るって言ってたけど」
「……すみません」
「何回言ったら理解してくれる?」
「え?」
「謝って欲しいわけじゃない」

あ、と傷付いたような矢島さんの顔にずきりと心臓が痛んだ。
心配、してくれたんだろうか。
そう思うと同時に、彼が不意に私の頭を引き寄せた。

「わ、」

前に傾く重心。
その先に待つ光景を、私は一度体験しているはずなのに、恥ずかしさを堪えることは出来なかった。
前に、この腕に抱きしめられたときは、偶然だったからかもしれない。

「何かあったんじゃないかって」
「……」
「心配したよ」

ぎゅ、っと背中に回された腕が、一層強くなる。
優しい言葉とは裏腹に、強い腕の力に私は苦しくなりそうだった。
苦しいです、と訴えてみてもあまり効果はない。
ただただ彼の胸の中でどうすることも出来ずにいた。
とりあえず恥ずかしさを隠すために顔を、背ける。
背けたせいで耳が直接矢島さんの鼓動を聞き取った。
少しだけ速い。
矢島さんも、緊張することってあるのかな。
そりゃ、あるか。
出会ったばっかりの頃は無愛想で、あんまり表情を崩さないポーカーフェイスな人だと思ってた。
けど、今日までの彼を思い返してみてそれは違うと断定できた。
もちろんポーカーフェイスには変わりないんだけど、でも。

驚いた顔、少し怒った顔、心配そうな顔。
何より、私をいつも幸せな気持ちにさせてくれる笑み。
そういえば最近は照れたようにも笑ってくれた。

ああ、やっぱり。

そっと私は自由な腕を動かした。
そして、彼の背中に静かに回す。
驚いたような彼の私を呼ぶ声がしたけれど私はもう少しだけこうしていたいと思った。

ああ、やっぱり。
恋に憧れとかそういうものなんかじゃない。
私は矢島賢さんという、一人の人が、大好きなんだ、って。

「……心配してくれて、ありがとうございます」
「佐伯や来栖も心配してた」
「はい」
「別に無理して来なくてもいいんだけど」
「ううん。行きたかった、んです」
「……何があったか聞くのは野暮かな」
「……」

困ったような矢島さんの声が、直接耳に響く。
この距離での会話は少し、恥ずかしさもあった。
未だに煩い心臓の音に囲まれながら、私はそっと口を開く。
過去に体験した、失恋を。

矢島さんはたどたどしい私の話にも飽きることなく聞いてくれた。
途中、部活は大丈夫なのか尋ねたところ、長い休憩だから平気との答えに安堵する。
そして再開される話。

「……恋をしないって決めたんです。というか、怖くなった、んですかね。誰かと距離を詰めること」
「……」
「だから少しだけ傍に居れたらいいって。それ以上を願うなんて怖いことはもうしたくないって、そう思うようになりました」
「……そう」
「矢島さん?」

抱き合ったままする話ではないような気もしたけれど、どうにも解放されるには話す以外の手はないと思った。
でも事実、途中何度も泣きかけたのにそれを我慢できたのは矢島さんの腕の暖かさがあったからかもしれない。
何かを考えるようにして、黙り込んでしまった矢島さんをもう一度、呼ぶ。
すると腕の力がまた一つ、大きくなったような気がした。

「絞め殺すんですか」
「……君はホラー好き?」
「あ、実は結構。週一回映画館とかDVDで見てます」
「そう。覚えておくよ」
「ありがとうございます」

ふふ、と柄にもなく畏まった笑いをすると、矢島さんが訝しげに私を見た。
少し抜ける力。
離れた距離を寂しく思いながらも解放されたことに些かの安堵は隠し切れない。
ずっとあのままであったならもう少しで、私の心臓は破裂してしまうかもしれなかった。

「別に強がる必要なんかない」
「弱くなる必要もないですよね」
「……やっぱり君は凄い人だと思うよ」
「そうです、か?」
「ああ、凄い」
「……いてくれたから」
「え?」

すっと、矢島さんに抱きとめられていた体を完全に離す。
教室から開け放されたドアを超えて、ベランダに出た私。
振り向いた先には矢島さんが訝しげな目で、私を見ていた。

「傍に、いてくれたからです」
「……」
「矢島さんが傍にいてくれたから、私、泣かずに話せました」
「苗字さん」
「だから、今度はこっちの番です」
「え?」
「……」

自然と浮かぶ笑みを噛み締めながら、矢島さんの方へと近付く。
ゆっくりと伸ばした手。
本当に心臓が、破裂してしまいそうな瞬間だった。
伸ばした先に、矢島さんの顔があって、唇がある。
昨日の夜、あなたがこうしてくれたように。
今度は私が。

「私の名前、呼んでください」
「……」
「あ、覚えてないですか?」
「いや」

ふるふると首を振った矢島さんが、少し迷ったように私から視線を外した。
こんな彼も、今まで見たことないなあ。
その瞬間、一際大きく風が吹いた。
ドアのサッシの辺りに立っていた私は、その風とは真逆に引き寄せられる。
目にした光景は再び、彼の腕の中だった。
そうして、紡がれる声。
私のためだけに歌って欲しいと願ったその声が、耳元で静かに囁く。

「……名前」

私だけの名前を、
私だけのために。

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