×長編 | ナノ
家に着いて一番始めにしたこと。 溜息。 それは落胆や不安からくるようなものじゃなかった。 真逆。 高揚から解放された、寂しさも少しはあったかもしれない。
何も手付かずな状態が続きそうだった。 思考を開始すれば昨日の矢島さんとのやり取りが思い描かれてしまって、勉強はおろか部活どころではない。 携帯を開いては、アドレス帳の一番上に表示されている彼の名前を見て、顔を緩ませてしまう。 あれは夢ではなかったんだ、と。 朝から良い気分で学校へ向かうはずだった。
次の日は土曜。 それでも部活をやるというバスケ部の見学を予めお願いしていた私は休日である今日も制服に身を纏った。 いつもより少し早めに家を出て、大通りに面する歩道橋を歩く。 途中出会った近所のおばあちゃんに挨拶をして、歩を進めた。 学校までの遠い道のり。 普通なら朝はバスに乗っていくはずだったけれど今日はなんだか歩きたい気分だったのでそれを避けた。 朝から会社へ行く人達で満員のバスに喜んで乗ることもない。 せっかく早起きしたんだし、と学校へ続く坂道へとつながる道路を横断しようとしたときだった。 赤信号で、足止めを喰らっているこちら側とあちら側。 何気なく進行方向の先を見た私は途端、体の動きが止まった。 道路を挟んだ向かい側。 行き交う車と車の間で、どうして目ざとく見つけてしまったのだろう。
途端目の前が真っ暗になる。 いや、オレンジ色だ。 そうだ、あの日に見た光景と同じ色。
ずっと何年も好きだった年上の人と、それ以上を望んだ結果。 晴れて付き合うことが出来て浮かれてた私。 同時に仲良くしてくれていた女の先輩に呼び出された待ち合わせ場所の教室。 指定された時間に遅れそうだから、と廊下を走る自分の姿。 息を乱して、開口一番に遅れてごめんなさいと続けようとした言葉は途中で消えた。
付き合ってくださいと言ったらはにかむように笑っていーよって答えてくれた先輩。 ずっと友達でいようね、って笑ってくれた先輩。 その二人を、同時に私は失った。
そしてその二人が視界にはいる。 こちらには気付いていないことを良いことに、私は顔を背けるようにして来た道を引き返した。 歩いていたはずの歩調がどんどんと速まる。 乱れる呼吸なんて構わずに私は街の中を走り抜けた。 見られたくない。 こんな、こんな私。
見られたくない。
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ぼうっとした意識の中で腕に付けていた時計が十一時を指している。 学校を大きく遠回りして、でも、体育館には向かわずに私は教室に来ていた。 今日は幸い補習や講座は開かれていないらしい。 どの教室も静寂を保ったまま私を迎えてくれた。 自分の席に荷物を置いた私は、窓を開け放つ。 そうだ、あの日も窓は開いていてそこから入り込む夕日の中で二人は抱き合い、キスしてた。 カーテンがあの日と同じようになびいて、揺らめく。 それを見ているとなんだか無性に泣けてきてしまった。 どうして、どうしてと何度も言った私に先輩は笑ってこう言う。
「冗談だと思ってた」
口にぽつり、出しては涙が溢れ出そうだった。 泣いてやるもんか、過去のことで。 そう必死に目元を押さえながら私は空を見上げる。 あの日とは違う、冬の空の青さ。 それだけが唯一、私を救ってくれているような気がした。
「……先輩達、まだ続いてるんだなあ」
脳裏にこびり付いては離れない、記憶。 私服で手をつないで、楽しそうに笑いながら信号待ちを異とも思わないその雰囲気。 釣り合うってああいう二人を指すのだろうか。 それなら私は。 私に釣り合う人なんているのだろうか。 矢島さんは? どうして矢島さんのことが浮かんだのか、と考えることはしなかった。 ただ、自分をひたすら納得させるためだけの空しさの感情を口にする。
「ぜ、ったい、無理だよ」「そうだよ、だって、」「あの人すごいお金持ちらしいし」「バスケだってすごく上手で」「歌だってうまくて」「……なにより」
ぽたり。 とうとう我慢し切れなかった涙が床に落ちる。 それを手で拭った後に、見つめる。 雫が落ちた床を足でふき取りながら、何してるんだろうと自嘲した息を零して、その場にしゃがみこんだ。
「何より、も、優しくてかっこいいんだもん……」
さらさらと風が私の頭を撫でる。 あの時怪我した部分はもう治りかけていた。 でも鮮明に思い出すことが出来る。 保健室で、矢島さんがその大きな手で私の頭を撫でてくれた時のこと。 あの暖かさ、あの優しさ。 それを再現するように風が私の髪を揺らした。
と、膝に埋めていた顔を上げる。 風ではなくて、もっと違う、暖かさを感じたから。 視線を上へと運んでいく教室の中、青空の下。 風ではなく、矢島さんの手がゆっくりと私の頭を撫でていた。
「見つけた」
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