×長編 | ナノ


最初に来栖さんとその彼女さん……らしき人。
次に杉崎くん。
そして最後に佐伯さんが別方向へと別れた。
残った私と矢島さんはどちらともなく歩き始める。
その間に会話は、あってないようなものだった。

「絵は出来そう?」
「あ、はい。頑張れば年内には」
「見てみたい」
「無理です」
「何で?」
「まだ、完成してません」
「完成してからで良いよ」
「……」

街に映り出されるヘッドライト。
それを横目に私はどんどんと白さを増す呼吸を繰り返しながら、そっと矢島さんの顔を見た。
街頭に映し出されるその端正な横顔に、見惚れてしまいそう。
こうして隣を歩いていることを、あの文化祭当日の私は想像出来ていただろうか。
いや、出来ていなかった。
ただ呆然と遠くのステージに立つ彼を見つめて、ただ、私だけのために歌って欲しい。
そんな願望を抱くに終わっていたはずなのに。
こんなにも近くにいられることが、この上なく嬉しい。

「何かに打ち込めるって凄いことだと思う」
「……それなら矢島さんだって」
「それでも苗字さんは凄い」
「え、そうですか」
「俺達を見るときの、何ていうんだろうね、表情が、凄い」
「それ酷いってことですか」
「まさか」

小さく笑った矢島さんが不意に私の視線に気付いたのか、こちらに顔を向ける。
交わった視線。
跳ねる鼓動。
身長差で、どうしても見上げる形になってしまう私の視線に、こうして彼が答えてくれている。
特別なことなんかじゃないんだろうけど、私にとってはどうしても特別なものに思えて仕方がなかった。
そして思い出す。
文化祭から今日までの日々。
最近になってよく見るようになったバスケットというスポーツの中での矢島さん。
いつもとは違う一面に最初は慣れなかった。
けれど今ではそれをしている時の矢島さんがいつもの彼なんだと思うほど、思い出の中の彼は赤いユニフォームを纏っている。

「あの、」
「ん?」
「矢島さんのポジションって、何か格好いいですよね」
「……え?」
「私バスケに詳しくないんですけど、でもなんか、影の功労者って感じで、何でも出来る人で」
「……」
「でもそれは矢島さんだからだと思うんです。陵泉のバスケ部の中で他の人に、それをやれって言ってもきっと出来ない」
「そう、かもね」
「だから、矢島さんも凄いひとなんだと思います」
「……スモールフォワード」
「え?」
「俺の、ポジション」
「あ、覚えておきます」

また、微笑んだ。
でも、少し違う。
どこか、照れたようなその笑みに、また一つ心臓が煩さを増す。
どうしよう。
こんなに、こんなにも矢島さんの色々な表情が見られたこと。
それが嬉しい。
視線を落とした先に、地面がある。
一つ、また一つと家に近付く度に募る寂しさ。
明日もまた会えるというのに、こんな我侭。
醜いなあ。
そう思いながら、コートのポケットに入れていた手を出す。
冬らしくなった空気に充てられて、ひんやりとしたそれ。
温もりを求めているみたいで恥ずかしくなって、再びポケットにしまった。

「あの」
「ん、」
「ここで、もう大丈夫です」
「そう?」
「すぐ、近くなんで」
「分かった」
「ありがとう、ございました」

一礼して、姿勢を正す。
向かい合った矢島さんは何か思案しているようだった。
どうしたのだろうと、尋ねる前に、すっと伸ばされた腕。
思わず肩が上下してしまったけれど、彼は特に気にしない様子で伸ばした腕をそっと私の頬に宛がった。
一際煩くなる心臓。
どう、しよう。
口に出す前に矢島さんが切り出した。

「携帯」
「え?」
「持ってるよね」
「あ、はい」
「知りたい、かな」
「何を、ですか?」
「連絡先」
「え!」

咄嗟に出た言葉に矢島さんが嫌かな、と答えた。
続きが思うように出なくて必死に嫌じゃないと訴えるために首を横に振る。
ふ、と笑った彼が私の頬に当てている手とは逆の手で携帯を取り出した。
赤外線、大丈夫?
そう尋ねられるのと同時に高速で、でもどこかぎこちない動きで取り出した自分の携帯。
未だに宛がわれている彼の腕の熱が、温もりが、心地よかった。

「……ん、ありがとう」
「い、いいえ!私の方こそ、ありがとうございます」

これは何ていうんだろう。
ああ、幸せってやつですかね。
訳の分からない自問自答を繰り返しながら、携帯を弄る。
不意に、矢島さんと入力したところで、今日の佐伯さんとのやり取りを思い出した。

「あの矢島さんの名前って何ですか?」
「え?」
「あ、今日佐伯さんと話してて」
「佐伯と?」
「はい、で、佐伯さんがその……矢島さんのことシマケンって呼んでるのは本名が由来だって聞いて」
「……そう」

心なしか、眉をひそめる矢島さんの様子に不思議に思いながらも、話を続ける。
で、矢島さんの名前が気になって、と。
続けようとしたところで、彼の手が、動いた。
頬を伝って、移動していく度に鼓動が早まる。
これ、不整脈になるんじゃないだろうか。
そんな逃避をしながら、皮膚の一つ一つの細胞が矢島さんの手の温もりを感じていた。
そしてそれはやがて口元で止まる。
唇にあたる、矢島さんの指先。
この瞬間にでも、私、死んじゃいそう。

「賢」
「え?」
「俺の名前。賢者の、賢」
「ああ、だからシマケンって、」
「そう。その呼び方の推奨はしてないよ」
「あは、そうなんですか?」
「呼んでみて」
「え」
「名前。呼んでみて」

宛がわれた指先。
見つめ合う視線。

「け、ん……さん」

さすがに呼び捨ては出来ないと取ってつけたような私のさん付けに、彼が微笑む。
心なしか、少し今日は笑ってくれる回数が多いような気がした。そしてようやく彼の手が私の顔から離れる。
解放された私の唇は、空気と潤いを忘れてしまったように乾いていた。

「ありがとう。またね、苗字さん」

寒さと彼の行動に翻弄された頬が、熱い。

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