×長編 | ナノ
それにしても驚いた。 何に驚いたって、昨日の帰り道だ。 矢島さんが携帯で何事か話して、すぐの出来事。 私達の前に黒塗りの高級車が一台、止まる。 さ、乗って。 促されるように車内に乗り込んだ私はこの時まで言葉を忘れてしまっていた。 もしかしたらぶつけた時に怪我した後頭部の痛みも忘れていたんじゃないかと思う。 ていうか。 矢島さんって、いわゆる金持ち?貴族? 彼が纏う、どこか上品な雰囲気の理由はこれか。 部活に行くと言って彼とは校門で別れたため、車内では会話がなく、ただただずっと外の景色を眺めながら、淡々と私はそんなことを考え込んでいた。
釣り合うわけ、ない。
「……アンタって」 「えー……」 「日によって本当変わるわよね、雰囲気」 「そっかー、ありがとー」 「誉めてないわよ」
ふわふわとした足取り。 四時半まで熟睡したせいで今日はあんまり寝れなかったし、宿題もよく分からない部分だったし、何より矢島さんとのことが頭から離れないせいで私の意識はどこかぼんやりとしていた。 沙耶香がうんざりしたような溜息を付いて、大丈夫だったの、と言葉を続ける。
「え、なにが」 「……昨日昼から保健室にいたんじゃなかったの」 「あ、うん。この年になって盛大に転びました」 「バカじゃないの」 「うん、バカだなって思った」 「……?」 「期待とかやっぱりしちゃう私、……バカだなって」
期待なんて最初からするつもりなかったのに。 ただ、少しだけで良いから距離を近づけたかっただけなのに。
近づけば近づくほど、もっと、もっと、って欲しがる。 過去に学習したことなんてすっぽり抜けしまうくらい、それ以上を求めちゃう。 どうしてだろう。
「ほんと、バカ」
- - -
というわけで。 放課後、バカはバカなりに開き直ることにした。 小脇に抱えたスケッチブックを見つめた後で一つ深呼吸。 ええそうです、私は矢島さんに近付きたいんです。 今よりもっと、きっと。 半ばヤケ状態になりながら体育館への足を進める。 放課後、自由な部活で良かった、とこの時ばかりはいつも自由すぎないかと疑問に思う美術部のありがたみが分かった。 それに基本的に芸術はやる気ないと出来ないものだろうし、そこが自由さの理由なんだと勝手に思い込んでる。 実際はどうか知らない。 別の意味でやる気になってる私はそんなことを考えながら着々と体育館へと近付いていった。 それに乗じて加速する鼓動。 正直、開き直り云々の前に、心臓が追いついてきてないのは一目瞭然だった。 矢島さんに会えるかもしれない、そう思うと乙女の心情みたいに胸が痛くなる。 乙女なんて、私らしくもないのに。
体育館の入り口で、バレー部の友達に会った。 最近よくここに来るよねなんて核心に突く話を何とかかわしながらアリーナへの入り口に近付く。 今日はバレー部が早く終わったのか、アリーナ一面をバスケ部が使用し、練習していた。
フットワーク、柔軟、ステップなどの軽いものからパス練習、ドリブル、レイアップへと移り行く様を私は入り口に佇んだまま、見守る。 スリーオンスリーでフォーメーションのチェックをしているところで、私は一度その場を後にした。 入り口付近に設置されている階段からギャラリーに上がる。 途中で鉛筆を落としそうになってけど長くした芯が折れることはなくて安心した。 手すりに寄り掛かるとあからさまに存在がバレてしまうだろうと思い、少し離れたところに腰掛ける。 スカートが見えないようにジャージを膝に被せて、その上にスケッチブックを固定した。 遠近を、確認する。 やがて描きたい場面を見つけた私は手馴れたようにスケッチブックにB6の濃さの鉛筆を走らせ始めた。
ドリブル、パス、全部の行動が綺麗と見惚れるほどだった。 その中でも特にシュートを放つ矢島さんの真剣みを帯びた瞳。 強く、惹きつけられてしまいそう。 何枚も何枚もラフ画だけを描いて、紙をめくっていく。 その作業に没頭し過ぎていたせいか、バスケ部が休憩を取っていたことに気付いたのは少し遅れてからだった。 見下ろす景色から赤のユニフォームが散らばっていく。 みんなそれぞれが休憩時間を思うように使っている中、視界にあの人は、いなかった。
「へえ、うまいね」 「ひっ!!」
突如背後から掛かった声。 反射的に上げてしまった悲鳴と同時に振り向けば、ドリンクを片手に、矢島さんの姿があった。 私の声に、心外そうな表情を浮かべている。
「俺はホラー映画のモンスターかなんか?」 「や、違うんです、びっくりしたというか」 「びっくりはこっちの台詞」 「え」 「何、してるの」 「あー、絵、描こうかなって」 「……」 「私、その、美術部なんで」
表紙に戻したスケッチブックをさっと彼に見せる。 彼に近付くための理由付けと思われたってこの際気にしなかった。 純粋に絵を描きたい、純粋に彼を見ていたい。 その気持ちが複合し合っての現状なんだから。
「それならそうと言えばいいのに」 「はい?」 「こんな所でこそこそ描かなくても」 「お、お邪魔じゃないかと」 「別に構わないよ。何なら顧問に許可を取って来ようか?」 「ええええ、いやここで私は良いんで、その、お構いなく!」 「……」
あ、そう。 ぶっきら棒にふいっと一度背を向けた矢島さんが、何を思ったか再び私を見る。 眼力に当てられたように動けなくなってしまった私の手を、彼が掴んだ。 いつもみたいな優しさがそこにはない。 男の子みたいな、荒々しさ。
「ちょ、矢島さん!」 「あ、来栖、いいとこに」
手を掴まれた私は赤面したまま、階下に通じる階段を下りた。 ていうか半ば引きずり落とされたような気もする。 そこで出くわしたのは以前矢島さんの所在を尋ねたことのある四番のユニフォームを着た男の人だった。
「何だよシマケン……、ってあれ、アンタ」 「美術部の人」 「はあ?」 「絵が描きたいらしいから。練習風景近くで見せても構わないよね」 「……絵?別にいーけどよ」 「じゃあ決定。悪いんだけど佐藤先生にも伝えといて」 「おー」
私の介入なしに、一連の流れが終わる。 来栖、と呼ばれたオレンジ頭の人は片手を挙げると、そのままアリーナへ入っていった。 遅れるようにして私達二人もその場に向かう。 その間にもつながれた手は、一向に離れる気配を見せなかった。 ああもう。 近付きたいとは望んでいたけど、こんな形は幾ら何でも恥ずかしすぎる。 どうしても集まってしまう私達への視線をどうにかやり過ごそうと俯く。 手にしているスケッチブックでいっそのこと顔を隠してしまおうか。 そんなことを思っていたときだった。
「ステージで良い?」 「え、」 「見学場所」 「あ……はい。見やすい所だったら」 「そう。コートに入らない限り、自由に動いてくれて構わないから」 「あ、ありがとうございます」
そういって、ようやく開放された手。 見ると血液が集中していく様が分かる。 やがてじわじわと痒くなっていった。 かゆい。 手とか、顔とか、とにかく矢島さんに見られてるところ、全部。 ぎゅっとその手を握り締めた後、ステージの壇上に通じる小さな階段を昇って、腰掛けた。 と、そこで矢島さんからのストップが入る。
「苗字さん」 「はい?」 「その、もうちょっと自覚していただけませんか」 「え、何がですか」 「幾らジャージで隠してても危険なのは変わりないから」 「え」 「正直、ギャラリーにいたときも危なかったと思うよ」 「……見てたんですか?」 「途中からいるなっては気付いてた」 「その、……見えました?」 「見えてはない」 「……信じますよ」 「ああ」
助言を受けた後で私はジャージを敷いたステージの上に、膝を立てないで座った。 絶対見える心配はないものの、いつもとは違う姿勢だから集中できるだろうか。 そんなことを思いながらふと見上げる。 ステージ。 文化祭の時には、あんなに遠いと思っていた舞台が、すぐここにある。 今、私はここにいる。 それくらい、 それくらい私と矢島さんの距離は少しでも近付けているんだろうか。
ビー、という独特なブザー音とともに練習が再開された。 それをきっかけに私は、世界を作り上げる。 絵という、自分の世界。 そこにいるのは私と、目の前の視界にいる人達。
つい数週間前の出来事なのに、忘れたくないと思っていたはずの記憶はひどく脆いものだった。
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