×長編 | ナノ


つまらない日常が、こんなにも変化するとは思わなかった。
名前や部活、昨日の夕方まで知らなかった彼に関する情報を知っただけでこんなにも幸せな気分になれる。
校舎を歩くときも、授業中に見下ろす町の風景も、全部が全部、新鮮なものに見えて仕方がなかった。
なんて単純なんだろう。
自分でも自分が変だと笑えてくる。

「顔、」
「え?」

朝一番に会った沙耶香が、訝しげな表情で口にした言葉に反応できず、聞き返す。
若干イライラしたような口ぶりで彼女が再び顔、と言った。

「顔?なに?ひどいのは元々だよ。無理だよ」
「違うわよ。分かりやすいわね」
「え?」
「何か進展あったって、顔」
「そう見える?」
「そこまで盛大に緩められたら、ね」

肩に掛かった髪を払うように手を振った彼女に笑い返す。
気持ち悪いわね、と邪険に扱われたけれどこの際気にしなかった。
教室までの道のり。
ところどころで朝一番の挨拶が交わされる活気のある学校内。
同じ空間に矢島さんもいるんだと思うと、どうしても顔が緩んでしまう。
そんなことで満足してていいの、と事の運びを聞いた沙耶香がうんざりしたような言葉を零した。
事の運びといっても、再び会えた云々かなり大雑把なことしか言っていないけれど。
それでも少し嬉しそうに笑ってくれた沙耶香のことがますます好きになった。
持つべきものは友達ですね、そう言いながら笑うとやっぱり邪険に扱われるけど。

「多くは望まないことにしてるの」
「ふうん」
「少しでも近づけただけで満足」
「それ以上は?」
「……怖いから、やだ」
「は?」

聞こえなかったのか、それとも予想外の言葉だったのか沙耶香が少し驚いたように聞き返してきたけれどそれ以上は言わなかった。
いつものクラスに入って、沙耶香とは離れ窓際の、いつもの席に座る。
授業開始までまだ僅かに時間があったけど、誰かと話そうとは思わなかった。
頬杖を付いて、窓の外の世界を見つめる。
矢島さんはクラスのどの席なんだろう。
もし窓側だったら彼もこうして外を見つめることがあるのだろうか。
同じ世界を見ている。
そして、名前を知り合えた。
それだけで充分私は満足している。



ん、と小さく声を出して顔を上げれば、誰もいない教室に一人ぽつんと座っていた。
時間がもうすでに部活の始まる時間。
慌てて立ち上がって寝てしまったのだろうかと辺りを見回しても、自分に置かれた状況にうまく解釈が出来ずにいた。
夕方、誰もいない教室。
何より座っている席が今とは違う。
廊下側の一番後ろ。
ひやりと汗が伝った。
この状況を、私は過去に体験している。
そっと耳を澄ませば、廊下から一人分の足音が聞こえる。
違った。
この教室にいるのは、私だけじゃなかった。

『――……』

誰かの話し声が聞こえる。
それも二人分。
バタバタと廊下を走る音、そして二人分の声。
鼓動がどんどんと速くなっていくのが分かった。
やがて、うっすらと二人の姿が描かれていく。
まるでスケッチブックに描くラフのような線からどんどんと主線が描かれ、そして色彩が付けられていく。

やだ。
これ以上、見たくない。

やがてその二人が、抱き合ってる、光景が映し出された。
絵画の世界みたいに、外から私は第三者として見つめる他に術はない。
そして廊下を走る足音がぴたりと止む。
どうか、この教室の扉を開けないで。
けれど無常にも開かれた扉。
現れた人物は立ち尽くしたように、言葉を失いやがて一言だけぽつりと呟いた。

『嘘……』

その言葉の主。
それは過去の私だ。



「……!苗字!!」

はっと目を見開く。
顔を上げると目の前に、怒ると怖いことで有名な数学教師が仁王立ちしていた。
慌てて周りを確認する。
色彩は青色。
外は夕方ではなく、朝一番のさわやかな風が吹いていた。
夢、?
ぼんやりする頭の片隅で、あの光景がまた描かれていく。
額に無意識に掻いていた汗、それを拭う手が微かに震えていた。

「授業中寝るなんて珍しいな」
「あ、……す、みません」

偶然視線の合った沙耶香がどこか不安そうな顔をしていたのが見える。
いつの間に授業が始まって、いつの間に寝てしまったんだろう。
寒くはないはずなのに体が震える。
そんな私の様子をおかしいと思ったのか、先生がもう一度私の苗字を呼んだ。

「具合が悪いのか」
「い、いえ、大丈夫です」

説得力がないくらい、震えていた。
小刻みに揺れる唇を何とか駆使してこの場をやり過ごさなきゃ。
そう思うと同時に教師が小さく溜息を付いたのが聞こえた。
日頃の行いのせいか、それ以上怒号を飛ばされることはなかった。

「全く。寝ていた罰だ。今日の課題集めたら昼休み、職員室に持ってきなさい」

けれどお咎めは免れられないらしい。
小さく、はい、と返事した後、教師は私に背を向けて授業を再開した。
ふうっと息を吐く。
外を見やれば、窓ガラスにうっすら映る自分の顔が、ひどく情けない表情をしていた。


……思い出したく、なかった。