×長編 | ナノ
「あの、」
遠慮がちに声を掛けられて、すぐ振り向いたらそこにはふるやが居た。未だに漢字は分からない。口頭だけで御幸に聞かされていたふるやという人物についての情報は、見事にイメージとかけ離れていた。無愛想、人の話を無視する、天然ボケ、頑固、負けず嫌い、バカ、エトセトラ。酷い言われようだ。でも、と彼は笑った。あんな投手向きな奴、そうそういねぇよ。野球部でもないわたしは、それが褒め言葉なのかもよく分からなかった。
「え?」 「落としました」 「あー、と、ありがとう」
一枚だけかわいそうに廊下のコンクリートに置き去りにされていたプリントは今、ふるやの手の中にある。そういえばわたしフルネーム知らないな。それより時間大丈夫だろうか。五時までにやっとけと言われたプリントの提出期限を確認するために携帯を開く。誰かからメールが来ていたがとりあえずは無視してすぐに閉じた。面倒だと思っていたプリントは意外にもあっさり出来たので結構時間は余裕だった。それにしても、居眠りしていただけで課題を出すなんてあの数学教師、どうかしてる。
「あの、」 「え」 「早く受け取ってくれませんか」 「あ」
色々考えていたらすっかり、ふるや、からプリントを受け取りそびれていた。ごめんごめん、と笑いながらふるやからそれを貰おうと手を伸ばす。びっしりとわたしが書いた数学の問題を一瞥すると、彼は素直にそれを差し出してきた。
「……数学」 「嫌悪するほど嫌い?」 「何で知ってるんですか」 「え?あー……」
顔にも大きく数学嫌い、って書いてあるけど。これは良いチャンスかな。そう思って、わたしは話を切り出そうとしたけどそういえば彼は部活、大丈夫なのだろうか。御幸も倉持も毎日飽きを知らないほど、放課後から夜まで果ては朝練とか。考えただけでげんなりしてしまうほど野球してるんだから一年のこいつも例外ではないだろう。部活は、と聞くと、今日は補習があって、と視線を逸らした。ああ、御幸の言ってたのは本当のことだったのか。
「こないだのテストの?ふるやって勉強出来そうなのに意外」 「……なんで名前、知ってるんですか」 「御幸から聞いた。でも漢字は知らないんだ」 「雨が降る降、に、谷です」 「へー、そうなんだ」
降谷。降谷。噛み締めるように何度も連呼していたら止めてくださいと言われた。どこかうんざりしたように。
「部活にはこれから行くんだ?」 「はい」 「ねぇ別にわたしに敬語要らないよ」 「……?」 「わたし、苗字」 「あなた何なんですか」 「うーん、御幸のクラスメート」 「へぇ」
敬語は段々となくなってきたのにどこかよそよそしい。そういえばこないだの試合見に行ったんだ。当たり障りのないことを言ったつもりだった。けれどそうですか、としか返ってこないところを見るとどうやら部活に行きたがっているようだった。野球部ってのはどいつもこいつも野球バカなのか、と笑った。
「うん、部活、頑張ってね」 「……はぁ」 「御幸によろしく〜そんじゃ、わたしはこれで」
彼の横を通り抜ける時、その姿を一瞥した。一見すると線の細いような体つきなのに、実はがっしりしてるんだな。その体をどこまで駆使すればあんなに一生懸命になれるのだろうか。それはもう体、とかの次元じゃなくて精神論なんだろうな。何かに一生懸命になったことがないわたしには、とても遠い話のように思えた。自分で離れたくせに、一度振り返った降谷の姿は、届かない距離にあって、どこか寂しく思えた。 変なの、知り合ったって言ってもほんの数分しか経っていないのに。
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