×長編 | ナノ


揺れる空気に漂う旋律。
口ずさむメロディは、透き通る酸素のように私の体にすうっと溶け込んでいった。

屋上へ通じる扉を開けた瞬間、視界に入り込む青空の眩しさに目を細める。
反射的に手を瞳の前に翳した後で、ここが無人でないことに気付いた。
どこからだろう。
途切れ途切れに聞こえるメロディ。
その音量の低さは距離が離れているということなのか、そもそもその声自体が小さいものなのか。
とにかくここには私以外の誰かがいる。
そう裏付ける証拠に私の聴覚は研ぎ澄まされたように反応した。
ドアノブを後ろ手で、気付かれないように静かに閉める。
右と左、どちらの耳からより大きくメロディを聞こえるだろうか。
集中するように目を閉じる。
明るい太陽の日差しが、少しばかり私の体温を上昇させていた。

ああ、きっと、この人は暑さとか苦手そうだ。

証拠も確証もない。
けれど声が、なんとなく私の考えをそちらの方向へ導いた。
そちらの方向、というのは、今このドアノブが設置されている建物の影。
屋上で唯一影のある方向のことだ。
出来るだけ足音を立てないようにそっと歩き出す。
一歩、また一歩と踏み出したところでこの声がどこかで聞き覚えのある人物のものだと思った。
誰だろう、そう思考を巡らせていく最中でも彼の声は止まらず私の心を掻き乱していく。
当分彼がここを離れる心配はなさそうだ。
それならと私は答えを思い出すまで、彼のいるであろう日陰には足を踏み入れなかった。
予め用意された答えをすぐ見てしまうなんて勿体ないこと、私は好きじゃない。

声が充分に聞こえるこの場所で私は静かに腰を下ろした。
誰も見てないことをいいことに、スカートのことは気にせず膝を抱えながら未だ鳴り止まない声に耳を傾ける。
膝に乗せた腕にそっと顔を乗せて、太陽の日差しを浴びながら次に目を伏せた。
綺麗な、声。
渦巻く感情は純粋にこの声をずっと聞いていたい、そういう願望から生まれたものだ。
そういえば、と伏せていた目を開く。
私だけのために歌ってくれているような、この状況。
それを以前願ったことがあった。
ああそうか。
あれは、

「盗み聞きなんて失礼だね」

あれは。
ふと思い出した過去の記憶。
その記憶と照合するように私はゆっくりと顔を上げた。
いつの間にか歌声はぷっつりと消えてしまって、辺りは静寂に包まれていた。
珍しく風がないこの季節に似つかわしくない天気。
その空の下で、夜の帳のような瞳が私を見下ろしていた。
正解、だった。

「矢島、さん……」

すると意外そうに顔を驚きに変えた、矢島さんが、静かに口を開く。
どうして俺の名前を?その言葉は私と彼が、全く面識のないことを表していた。
けれど私は一方的に知っている。
ついこないだ行われた、文化祭のライブ。
その舞台で一躍、彼は有名人になったんだから。
どう答えようか、とか、目の前にあの矢島さんがいる、とか支離滅裂な考えを巡らせている私に彼が、少しだけ呆れたような溜息を零したのが分かった。
次いで、彼の右手の人差し指が、そっと私を指差す。
半ば反射的に私は口を開いていた。

「人を、指差すなんて失礼ですね」
「……そう。忠告しようと思っただけなんだけど」
「忠告?」
「スカート」
「あ、」

言うが早く私は体勢を整えた。
いわゆる体育座りしていた先程までの自分の姿勢を思い出して、些か顔が熱くなる。
視界的には矢島さんから見えることはないにしても、やっぱりスカートが捲れるとかそういう可能性は充分に有り得た。
やれやれと言ったように、彼がまた一つ溜息を付いた。
そして、ゆっくりと壁にもたれ座る私の前を通り過ぎて、廊下へ通じる扉の方向へ歩いていく。
気が付けば思わず、彼の名前を呼んでしまっていた。
矢島さん、と。
丁寧な動作で彼が振り返る。
けれどどう言葉を続けていいのか分からなくて私は黙り込んでしまった。

「何?」
「……あ、えーと」
「用事がないんだったら行くけど」
「あ、あります!」
「だから、何」
「ありますけど、その……」

言いたいことが色々混ざり合ってて、正直今の私の脳内はぐちゃぐちゃだった。
ぐるぐると回り巡っては消えていく思考が、やがてバタン、という音に全て掻き消される。
え、と思った後にはもうどこにも矢島さんの姿は見当たらなかった。
落胆する心と、高揚を維持する体。
相反する矛盾を嘲笑うかのように、今頃秋らしい風が私の体を襲った。

そして耳では未だに木霊し続けている。
彼の、綺麗な声が綴る旋律を。