×長編 | ナノ



七郷の一つに登る。いつになく風が強くて、もしかして雄飛さんかな、とも思ったけど止めなかった。ここから見下ろす桜新町の風景は、あの日初めてこの町を訪れたときとあまり変わらない。……違う。変わってないのは、私だ。



「ったく……とんだ子猫だな」

俺は手ぇ出さねえよ。そう言いながら傍らにキレイな女性を引き連れた小さい男は煙草を咥えた。意識が定かじゃない。ぼうっとした脳を邪な何かが洗脳しようと外側から侵入してきている。それだけが、分かった。

「ほう、堕とされた割にはまだ意識があんだな」
「……な、に」
「お前は運が悪かったんだよ」

"堕ちる"という妙な単語に引っ掛かりを感じる。今までにない、体の芯から熱くなるような、違和感。力が溢れて、でも捌け口がないために暴れ出したい。私の体は私の意識とは関係ないところで動き出そうとした。

「おっと」

いつの間に、攻撃をしていたんだろう。気が付けば私の腕は目の前にいた男の方へ繰り出されていて、男は造作もなくそれを片手で受け止めていた。ギリ、とどちらの手が鳴ったのか分からない音がする。意識は、どこか遠い場所へ隔離されてしまったみたいだった。ガラスの内側から叩いても自由が利かない。体が乗っ取られてしまったみたいだ。

「言ったろ?俺は手ぇ出さねぇって。出さねぇ代わりに、お前も俺には手ぇ出せねぇ」

誰ですか!叫びたかったけれどじわりじわり脳を熱く刺激する何かに邪魔されてそれは出来ずにいた。手がまた、引いたかと思うと男のほうへ助走を付けて繰り出される。やめてよ。もう、もう、殺したくないのに。

「運が悪かった。だけどそこで諦めたら死ぬぜ」
「……っ」
「戻って来れるか否か、それはお前さん次第。こんなとこで死にたかねぇだろ?」

強くあれ。そう、言われたような気がした。後ろを振り向けば自分自身が殺めたものが、横たわっている。耳を、塞いだって聞こえる。普通じゃ聞こえないはずの距離から今でも、死に間際の人間の呻き声が、叫びが、悲しみが。

「背負えよ。逃げんな。俺が言えんのはこれだけだ」

ガラスのような容器の中に、私という意識が閉じ込められている。前を向けば煙草を咥えた男がこんな状況にも関わらず余裕の笑みを浮かべて私を真っ直ぐ見ていた。人間じゃありえないほどに伸びきった鋭い爪、が、どんどん短くなっていく。強くとか、背負えとか、まだよく分かんない。だけど死にたくない。そう思ったと同時に私は、自分の体を取り戻したような感覚に包まれた。

「……うっ」

脳に働きかけて、手を動かせば自由が利く。手も体も足も、全部が自分の物だと証明するみたいに自由に動かすことが出来た。

「戻、った……?」

座り込んだままそう呟いたと同時に前にいた男が、スッと手を差し伸べてきた。

「よう。帰ってきたな」
「あなたは……?」
「俺がどうとかそういうのは今、問題か?」
「あ、……」

振り返ることを、私は躊躇した。帽子を深く被った男は、夜の闇に身を潜めるみたいに顔がよく見えない。

「わ、たし……」
「戻ってきた早々で悪いが、引越しだな」
「え、?」
「お前はもうここにいちゃいけねぇよ」

見慣れた街、見慣れた通り。そのどれもが今は私を敵対視してるみたいに真っ暗だった。停電を起こしているのか辺りの家屋は全部暗闇に佇んでいて、コンクリートの壁のあちこちに見慣れない傷痕がある。引っかき傷のような痛々しいそれは、すぐ側に横たわる見たくないと反射的に逸らした光景の中央にも存在していた。

「……全部私がやったんですか」
「正確に言うとお前の中にいる奴」
「私の中に?」
「ああ。詳しい話は落ち着いた後、だな」

とりあえず立てるか。そう投げかけた言葉に私は大丈夫です、と言って立ち上がろうとした。けれど体は想像以上に疲れているようで、思うように言うことを聞いてくれない。大丈夫、なはずなのに。急に襲い掛かる眠気と疲れに目を擦れば、可笑しそうに見上げた先の男は口元を緩めた。

雲に隠れていた月の光が、その顔をようやく照らし出す。

「無理もねーか。マリアベル、車を呼べ」
「承知致しました」
「いいか、お前さんはもう今までの生活にゃ戻れねぇ」

キレイな女の人はそう言って一礼をすると、どこかへ行ってしまった。私の目線に合わせるように腰を下ろした男の人。というよりも、身長とその顔立ちから一瞬私よりも年下なんじゃないかと疑ってしまった。物言いは、ずっと大人びているのに。

「お前さんの面倒を見てくれる場所に、お前さんは行くべきだ」

混濁する意識の中で、必死にその男の言うことを理解しようとしたけれど、難しい。けれど分かったことがある。一つ、私はもうここに居られないこと。二つ、この人が人でないこと。三つ、

私はもう、人間ではないということ。



(耳も舌も、鼻も。全部が全部まるで自分の体じゃないみたい)